この記事では、難解な『中論』の核心を、①八不中道、②空と縁起、③二つの真理、④涅槃と世間の4つのポイントに絞って解説します。もし難しいと感じた方は下記の記事をみてください。
以前、中論入門ということで、理解が難しい空についての記事を書きました。
仏教の「空」とは?虚無との違いをわかりやすく解説【龍樹『中論』入門】 - 月影
中論は、大乗仏教の根幹をなす「空(くう)」の思想を論理的に体系化した、極めて重要な仏教論書です。その内容は非常に難解ですが、特に重要とされる箇所は以下の通りです。
中論の現代語訳をいかに置いておきます。原文はこちらです。
📘『中論』観因縁品・観去来品 現代語訳(クリックして展開)
中論 観因縁品 第一 (十六偈)
龍樹菩薩 造 / バラモン 青目 釈 姚秦の三蔵法師 鳩摩羅什 訳
不生(ふしょう)にして亦(また)不滅(ふめつ)ならず
不常(ふじょう)にして亦(また)不断(ふだん)ならず
不一(ふいつ)にして亦(また)不異(ふい)ならず
不来(ふらい)にして亦(また)不出(ふしゅつ)ならず
能(よ)く是(こ)の因縁を説き
善(よ)く諸(もろもろ)の戲論(けろん)を滅したもう
我(われ)は稽首(けいしゅ)して仏を礼(らい)したてまつる
諸説の中の第一なりと
【問い】 なぜこの『中論』をお作りになったのですか。
【答え】 ある人々は「万物は大自在天(だいじざいてん)から生じた」と言い、ある者は「ヴィシュヌ神から生じた」と言い、ある者は「(様々な要素の)和合から生じた」と言い、ある者は「時間から生じた」と言い、ある者は「世界の根本原理(世性)から生じた」と言い、ある者は「変化そのものから生じた」と言い、ある者は「自然に生じた」と言い、ある者は「極微の粒子(微塵)から生じた」と言う。このような誤りによって、「原因がない(無因)」とか「誤った原因(邪因)」、「(死ねば全て終わるという)断見」や「(魂は永遠だという)常見」などの誤った見解に陥っている。彼らは様々な形で「私(我)」や「私のもの(我所)」という考えを立てるが、正しい法を知らない。
仏は、このような様々な誤った見解を断ち切り、仏の正しい法を知らせようとお考えになった。そのために、まず声聞(しょうもん、仏の直接の弟子)のための法の中で「十二因縁」をお説きになった。さらに、すでに行を修め、大きな心をもち、深い法を受け入れることができる者のためには、大乗の教えによって因縁の真実の相、すなわち「すべては不生不滅・不一不異などであり、究極的には空(くう)であって何ものも存在しない」とお説きになった。これは『般若経』の中で、仏が須菩提(しゅぼだい)に「菩薩が道場に坐して十二因縁を観想するとき、それは虚空のように尽きることがないものだと見るのだ」と告げられた通りである。
仏が亡くなって後の五百年、像法(ぞうぼう)の時代になると、人々の能力は次第に鈍くなり、物事の実在に深く執着するようになった。彼らは十二因縁や五蘊(ごうん)・十二入(じゅうににゅう)・十八界(じゅうはっかい)などに固定的な実体があるかのように求め、仏の真意を知らずにただ文字に執着した。そして大乗仏教で説かれる「畢竟空(ひっきょうくう、すべては究極的に空である)」という教えを聞いても、どういう理由で空なのかが分からず、すぐに疑いの見解を生じさせてしまう。「もしすべてが完全に空であるなら、どうして罪や福、その報いなどを区別することができるのか。それでは世俗の真理(世諦)も究極の真理(第一義諦)もなくなってしまうではないか」と。彼らはこの「空」という考えを誤って捉え、それに執着し、畢竟空の教えに対して様々な過ちを生じさせてしまった。龍樹菩薩は、このような人々のために、この『中論』をお作りになったのである。
不生にして亦不滅ならず、不常にして亦不断ならず、
不一にして亦不異ならず、不来にして亦不出ならず。
能く是の因縁を説き、善く諸の戲論を滅したもう、
我は稽首して仏を礼したてまつる、諸説の中の第一なりと。
この二つの偈で仏を讃えることによって、すでに第一義諦(究極の真理)の要点を説き明かしたことになる。
【問い】 世の中の事象は無数にあるのに、なぜこの八つの事柄(不生・不滅など)だけを取り上げて否定するのですか。
【答え】 事象は無数にあるが、この八つの事柄を簡潔に説けば、すべての事象をまとめて否定することになるからだ。「不生」とは、様々な論師が「生じる」ということについて色々な説を立てるが、例えば「原因と結果は一体である」「原因と結果は別物である」「原因の中にすでに結果がある」「原因の中には結果はない」「それ自体から生じる(自生)」「他のものから生じる(他生)」「自他両方から生じる(共生)」「(有るものから)有るものが生じる」「(無いものから)有るものが生じる」など、これらの「生じる」ことについての説は、すべて正しくない。このことは後で詳しく説明するが、「生じる」という確定的な相(すがた)は得られないから「不生」なのである。 「不滅」とは、もし「生じる」ことがないのなら、どうして「滅する」ことがあるだろうか。生じることも滅することもないからこそ、残りの六つの事柄(不常・不断など)もまた成り立たない。
【問い】 「不生・不滅」だけですべての事象を否定したというなら、なぜさらに六つの事柄を説くのですか。
【答え】 「不生・不滅」の道理を成り立たせるためである。ある人は「不生・不滅」は受け入れなくても、「不常・不断」は信じるかもしれない。もし「不常・不断」を深く追求すれば、それはすなわち「不生・不滅」に行き着く。なぜなら、もし事象が実在するなら、それは無くなるはずがない。(もし元からあったものが)以前は有って今は無いというなら、それは「断(断滅)」である。もし以前から本性として有るなら、それは「常(常住)」である。だから「不常・不断」を説くことは、そのまま「不生・不滅」の道理に入ることになる。 またある人は、この四つの否定(不生・不滅・不常・不断)を聞いても、なお四つの肯定(一・異・来・出)によって事象を成り立たせようとするが、それも正しくない。もし「一(いつ、同一)」であるなら、関係性(縁)は成り立たない。もし「異(い、別物)」であるなら、連続性(相続)は成り立たない。これは後で様々に論破する。だからさらに「不一・不異」を説くのである。 またある人は、六つの否定を聞いても、なお「来(らい、やってくる)」と「出(しゅつ、出ていく)」によって事象を成り立たせようとする。「来」とは、事象が大自在天や世性や微塵などからやってくると言うこと。「出」とは、また元の場所へ去っていくと言うことだ。
さらに言えば、万物は生じない。なぜか。それは世間で現に見られることだからだ。世間の目で見て、遠い昔(劫初)の穀物は(今ここに)生じてはいない。なぜなら、遠い昔の穀物から独立して、今の穀物はありえないからだ。もし遠い昔の穀物とは別に今の穀物があるというなら、生じたと言えるだろう。しかし実際はそうではない。だから不生なのだ。
【問い】 もし生じないなら、滅するはずですね。
【答え】 滅しない。なぜか。世間で現に見られることだからだ。世間の目で見て、遠い昔の穀物は滅してはいない。もし滅していたら、今ここに穀物はないはずだ。しかし実際には有る。だから不滅なのだ。
【問い】 もし滅しないなら、常住であるはずですね。
【答え】 常住ではない。なぜか。世間で現に見られることだからだ。世間の目で見て、万物は常住ではない。穀物が芽を出すとき、種は変化し壊れていく。だから不常なのだ。
【問い】 もし常住でないなら、断滅するはずですね。
【答え】 断滅しない。なぜか。世間で現に見られることだからだ。世間の目で見て、万物は断滅しない。穀物から芽が出るように、連続している。だから不断なのだ。もし断滅するなら、連続するはずがない。
【問い】 もしそうなら、万物は一体(一)なのですか。
【答え】 一体ではない。なぜか。世間で現に見られることだからだ。世間の目で見て、万物は一体ではない。穀物は芽ではなく、芽は穀物ではない。もし穀物が芽であり、芽が穀物であるなら一体と言えるだろう。しかし実際はそうではない。だから不一なのだ。
【問い】 もし一体でないなら、別物(異)なのですね。
【答え】 別物ではない。なぜか。世間で現に見られることだからだ。世間の目で見て、万物は別物ではない。もし別物なら、なぜ「穀物の芽、穀物の茎、穀物の葉」と区別して言い、「樹の芽、樹の茎、樹の葉」とは言わないのか。だから不異なのだ。
【問い】 もし別物でないなら、どこかから来る(来)のですか。
【答え】 来ない。なぜか。世間で現に見られることだからだ。世間の目で見て、万物は来ない。穀物の種子の中に、芽はどこかから来たわけではない。もし来たのなら、芽は他の場所から来たはずだ。鳥が木に巣を作りに来るように。しかし実際はそうではない。だから不来なのだ。
【問い】 もし来ないなら、中から出る(出)のですか。
【答え】 出ない。なぜか。世間で現に見られることだからだ。世間の目で見て、万物は出ない。もし出るなら、芽が穀物から出てくるのが見えるはずだ。蛇が穴から出てくるように。しかし実際はそうではない。だから不出なのだ。
【問い】 あなたは「不生・不滅」の道理を解釈してくれましたが、私はこの論の作者(龍樹)自身の説を聞きたい。
【答え】 (龍樹はこう説いている。)
諸法は自ら生ぜず
亦(また)他より生ぜず
共(とも)にも無因にもあらず
是の故に無生なることを知る
「自ら生ぜず(自生せず)」とは、万物はそれ自体の力だけで生じることはない、ということだ。必ず多くの原因や条件(衆因)を必要とする。それに、もしそれ自体から生じるなら、一つのものに二つの体があることになる。一つは「生じるもの(生)」、もう一つは「生じる主体(生者)」である。もし他の原因なしにそれ自体から生じるなら、それは無因無縁ということになってしまう。また、「生じる」という作用がさらに「生じる」を生み、無限に続いてしまう。 「自」がないのだから「他」もない。なぜなら、「自」があるからこそ「他」があるからだ。 もし「自ら生じる」のでもなく、「他から生じる」のでもないなら、「共(自他両方)に生じる」ことは二つの過ち(自生の過ちと他生の過ち)を犯すことになる。 もし「無因(原因なく)」して万物が生じるなら、それは(原因なく存在するのだから)常住であるはずだが、そうではない。原因がなければ結果はない。もし原因なく結果が生じるなら、布施や戒律を守るなどの善行をした者が地獄に堕ち、十悪や五逆などの大罪を犯した者が天上に生まれるということもありえてしまう。それは無因だからだ。
さらに、
諸法の自性(じしょう)は
縁の中に在(あ)らず
自性無きを以(もっ)て故に
他性も亦(また)復(ま)た無し
あらゆるものの「自性(それ自体で存在する不変の実体)」は、原因や条件(縁)の中には存在しない。ただ多くの縁が和合することによって、仮に名前が与えられているだけだ。「自性」とはそれ自体のことである。縁の中に自性はない。自性がないのだから、自ら生じることはない。 自性がないのだから、「他性」もない。なぜなら、自性があるからこそ他性があるのであり、その「他性」も、その「他」にとっては「自性」だからだ。もし自性を否定すれば、同時に他性も否定することになる。だから、他性から生じることもありえない。 もし自性と他性を否定すれば、それらが共(とも)にという義も否定される。無因であることには大きな過ちがある。原因があると仮定しても論破されるのに、ましてや無因である場合は言うまでもない。この四つの観点(自・他・共・無因)のどこにも「生じる」ことは見当たらない。だから「不生(無生)」なのである。
【問い】 アビダルマ(阿毘曇、部派仏教の論書)では、「あらゆるものは四つの縁(四縁)から生じる」と説かれている。どうして「生じない」と言うのか。四縁とは何か。
因縁(いんねん)・次第縁(しだいえん)・縁縁(えんねん)・増上縁(ぞうじょうえん)
四縁が諸法を生じ
更に第五の縁は無し
すべての縁は、この四つの縁に収められる。この四縁によって万物は生じるのだ、と。(※因縁=直接原因、次第縁=前の瞬間が次の瞬間の条件となる縁、縁縁=認識の対象となる縁、増上縁=間接的な要因や環境)
【答え】
果は縁より生ずるか
非縁より生ずるか
是の縁に果は有るか
是の縁に果は無きか
もし結果(果)があるというなら、その結果は「縁」から生じるのか、それとも「縁ではないもの(非縁)」から生じるのか。 もし縁があるというなら、その縁には「結果」が(すでに)有るのか、それとも無いのか。どちらも正しくない。なぜなら、
是の法より果生ずれば
是の法を名づけて縁と為す
是の果 未(いま)だ生ぜざれば
何ぞ非縁と名づけざる
「あるもの(法)から結果が生じるから、そのあるものを縁と名づける」。もしその結果がまだ生じていないなら、それをどうして「非縁」と名づけないことがあろうか。(つまり、結果が生じて初めて、それは「縁」と呼ばれる。結果がなければ、それはただの「非縁」だ)。縁が縁として成り立つのは結果による。結果が後で、縁が先だからだ。もし結果がまだないのなら、どうしてそれを縁と呼べるのか。例えば、瓶(へい)は水と土が和合してできる。瓶という結果を見て、水や土が瓶の「縁」であったと知る。もし瓶がまだ生じていない時、どうして水や土を「非縁」と呼ばないのか。だから、結果は縁から生じるのではない。縁自体が(結果なしには)成り立たないのに、ましてや非縁から生じることがあろうか。
さらに、
果は縁の中に先(さき)に有りと無きと倶(とも)に不可なり
先に無くんば誰が為の縁ぞ
先に有らば何ぞ縁を用いん
縁の中に、結果が前もって「有る」のも「無い」のも、どちらも成り立たない。 もし先に結果が「有る」なら、それは縁とは呼ばない。結果はすでにあるのだから。 もし先に結果が「無い**」なら、それも縁とは呼ばない。(まだ無い)他のものを生み出すことはできないからだ。
【問い】 すべての因縁をまとめて否定したのはわかった。今度は一つ一つの縁をどのように否定するのか聞きたい。
【答え】
若し果は有として生ずるにも非ず
亦(また)無として生ずるにも非ず
亦(また)有無として生ずるにも非ず
何ぞ縁有りと云うことを得ん
もし縁が結果を生むとすれば、その結果は「有(すでに有るもの)」「無(全く無いもの)」「有無(有でもあり無でもあるもの)」の三通りで生じるはずだ。先の偈で説いたように、もし縁の中に先に結果が有るのなら、生じるとは言わない。すでに有るからだ。もし先に無いのなら、生じるとは言わない。もともと無いからだ。それは縁ではないものと同じことだ。「有無」としても生じない。有無とは半分有り半分無いという意味だが、どちらにも過ちがある。また、「有」と「無」は互いに矛盾する。一つのものにどうして二つの相があるのか。このように三つの観点から結果が生じるという相(すがた)を求めても得られないのだから、どうして「因縁」があると言えようか。
「次第縁」について。
果若し未だ生ぜざる時は
則ち滅有るべからず
滅せる法 何ぞ能(よ)く縁と為(な)らん
故に次第縁は無し
心とそれに伴う作用(心心数法)は、過去・現在・未来の三世を順に生じていく。(部派仏教では)現在の心の作用が滅することが、未来の心の作用の次第縁となると言う。しかし、未来の法はまだ生じていない。誰に対する次第縁なのか。もし未来の法がすでに有るなら、それはすでに生じているのだから、次第縁は必要ない。 現在の心の作用には留まる時がない。もし留まらないなら、どうして次第縁になれるのか。もし留まるなら、それは変化しないもの(無為法)であり、変化するもの(有為法)ではない。なぜなら、すべての有為法は常に滅する相を持つからだ。 もし滅してしまった後なら、次第縁になることはできない。もし「滅した法はなおも存在する」と言うなら、それは常住論になってしまい、罪や福などの因果が成り立たなくなる。 もし「滅する瞬間に次第縁となる」と言うなら、「滅する瞬間」とは半分滅し半分まだ滅していないというような、第三の状態ではない。また仏は「すべての有為法は瞬間瞬間に滅し(念念滅)、一瞬たりとも留まることはない」と説かれた。どうして現在の法に「まさに滅しようとしている時」と「まだ滅しようとしていない時」があると言えるのか。もしあなた方が「一瞬の中にそのような区別はない」と言うなら、自分たちの教えを破ることになる。あなた方アビダルマでは、「滅する法」「滅しない法」「まさに滅しようとする法」「まだ滅しようとしていない法」があると説いているではないか。したがって、次第縁は存在しない。
「縁縁」について。
諸仏の所説の如き
眞実微妙の法には
此の無縁の法に於て
云何(いか)にぞ縁縁有らん
仏がお説きになった大乗の教えによれば、有色・無色、有形・無形、有漏・無漏、有為・無為など、あらゆる事象の相(すがた)は、法性(ほっしょう、真理そのもの)に帰すれば、すべては空(くう)であり、実体もなければ認識の対象(縁)もない。それはちょうど、多くの川が大海に流れ込むと、同じ一つの味になるようなものだ。この真実の法こそが信じるべきものであり、人々の能力に応じて方便として説かれたものを、実体として捉えてはならない。したがって、縁縁(認識の対象としての縁)は存在しない。
「増上縁」について。
諸法に自性無きが故に
有相有ること無し
是の事有るが故に是の事有りと説くは
然(しか)らず
経典には「是の事有るが故に、是の事有り」(これが有るから、あれが有る)という十二因縁の定型句が説かれている。しかし、これは(実体的にそうであるというわけでは)ない。なぜなら、あらゆるものは多くの縁から生じるのだから、それ自体に定まった本性(自性)はない。自性がないのだから、「有る」という確定的な相はない。「有る」という相がないのに、どうして「これが有るから、あれが有る」と言えるのか。したがって、増上縁は存在しない。仏は凡夫が「有る」「無い」と分別するのに合わせて、方便としてそう説かれただけである。
さらに、
略(りゃく)・広(こう)の因縁の中に
果を求むるに得可(うべ)からず
因縁の中に若し無くんば
云何(いか)んぞ縁より出でん
「略」とは、縁が和合した全体の中に結果は見当たらない、ということ。「広」とは、一つ一つの縁の中にも結果は見当たらない、ということ。もし全体的にも個別的にも因縁の中に結果がないのなら、どうして結果が因縁から出てきたと言えるのか。
さらに、
若し縁に果無くして縁の中より出づと謂(おも)わば
是の果は何ぞ非縁の中より出でざる
もし「因縁の中には結果はないが、因縁から結果が出てくる」と言うのなら、その結果はなぜ「縁ではないもの(非縁)」から出てこないのか。例えば、泥の中に瓶はないが、なぜ(瓶の縁ではない)牛乳から瓶が出てこないのか。
さらに、
若し果は縁より生ずとせば
是の縁に自性無し
自性無きものより生ずれば
何ぞ縁より生ずと得ん
果は縁より生ぜず
非縁よりも生ぜず
果有ること無きを以(もっ)て
縁・非縁も亦(また)無し
もし結果が縁から生じるとするなら、その縁には自性(それ自体で存在する実体)がない。もし自性がないなら、それは実体がないということだ。実体がないものが、どうして何かを生み出せるのか。だから結果は縁からは生じない。 「非縁からも生じない」とは、縁を否定したからこそ、仮に非縁という言葉を使っただけで、実体としての非縁があるわけではない。だから非縁からも生じない。 もしこの二つ(縁と非縁)から生じないのであれば、すなわち結果はないということだ。結果がないのだから、縁も非縁もまた存在しない。
中論 観去来品 第二 (二十五偈)
【問い】 世間では、眼で見て「すでに行った(已去)」「まだ行っていない(未去)」「行っている最中(去時)」という三つの時間における作用(作)が確かにある。作用があるのだから、すべての事象は存在するはずだ。
【答え】
已去(いこ)には去有ること無く
未去(みこ)にも亦(また)去無し
已去未去を離れて
去時にも亦(また)去無し
「すでに行った(已去)」ものには、もはや「行く(去)」という作用はない。すでに行為は終わっているからだ。もし「行く」という行為から独立して「行った」という状態があるなら話は別だが、そうではない。 「まだ行っていない(未去)」ものにも、「行く」という作用はない。まだ「行く」という法が生じていないからだ。 「行っている最中(去時)」とは、半分は行き、半分はまだ行っていない状態のことだが、これも「已去」と「未去」を離れては存在しない。
【問い】
動く処に則ち去有り
此の中に去時有り
已去未去に非ず
是の故に去時に去有り
動き(作業)があるところに「行く」という作用はあるはずだ。この「行っている最中(去時)」にこそ動き(作業)がある。 「已去」では作業はすでに終わっており、「未去」ではまだ作業はない。だから、「行っている最中」に「行く」という作用はあると知るべきだ。
【答え】
云何(いかん)ぞ去時に於て
当(まさ)に去法有るべき
若し去法を離れては
去時 得可(うべ)からず
どうして「行っている最中」に「行く」という法(作用)があると言えるのか。それは正しくない。なぜなら、「行く」という作用から独立した「行っている最中」という時間を得ることはできないからだ。もし「行く」という作用とは別に「行っている最中」という時間があるのなら、器の中に果物があるように、「行っている最中」の中に「行く」という作用があると言えるだろう。
さらに、
若し去時に去有りと謂(おも)わば
是の人則ち咎(とが)有り
去を離れて去時有らば
去時独り去る故に
もし「已去」「未去」には「行く」作用がなく、「行っている最中」にこそ「行く」作用が実在すると言うなら、その人には欠陥がある。もし「行く」という作用から独立して「行っている最中」という時間があるなら、両者は互いに依存しないことになる。なぜなら、「行っている最中」に「行く」作用があると言うことは、二つが別々にあるということになるが、実際はそうではない。だから、「行く」作用から離れて「行っている最中」があるとは言えない。
さらに、
若し去時に去有らば
則ち二種の去有り
一には去時と為(な)し
二には去時に去ると謂う
もし「行っている最中」に「行く」作用があると言うなら、そこには過ちがある。すなわち、二種類の「行く」が存在することになる。一つは、「行く」作用によって「行っている最中」という時間が成立するための「行く」。もう一つは、その「行っている最中」の中に存在する「行く」である。
【問い】 もし二つの「行く」があったとして、どんな欠陥があるのですか。
【答え】
若し二去法有らば
則ち二去者(にこしゃ)有り
去者を離れて
去法 得可(うべ)からざるを以(もっ)てなり
もし二つの「行く」という法(作用)があるなら、二人の「行く者(去者、行為主体)」がいることになる。なぜなら、「行く」という法があることによって「行く者」が成立するからだ。一人の人間が二つの「行く」を持ち、二人の「行く者」になるというのは正しくない。だから、「行っている最中」にも「行く」という作用はない。
【問い】 「行く者」から離れて「行く」作用がないのはその通りかもしれない。しかし、この三つの時間(已去・未去・去時)には、確かに「行く者」はいるではないか。
【答え】
若し去者を離れて
去法 得可(うべ)からずんば
去法無きを以て
何ぞ去者有ることを得ん
もし「行く者」から離れて「行く」という法が得られないのであれば、(逆に)「行く」という法がないのに、どうして「行く者」が存在できるのか。
さらに、
去者は則ち去かず
不去者も去かず
去者・不去者を離れて
第三の去者無し
「行く者」は(すでに行く者なので)行かない。「行かない者」は(行かないのだから)行かない。この「行く者」と「行かない者」を離れて、第三の「行く者」は存在しない。
【問い】 もし「行く者」が行くとしたら、どんな欠陥があるのですか。
【答え】
若し去者去くと謂わば
云何(いかん)ぞ此の義有らん
若し去法を離れては
去者 得可(うべ)からざればなり
もし「行く者」が(主体的に)「行く」という作用を用いると言うなら、その理屈は成り立たない。なぜなら、「行く」という法から独立した「行く者」を得ることはできないからだ。もし「行く者」から独立して「行く」という法が確かに存在するなら、「行く者」はその法を用いることができるだろう。しかし実際はそうではない。
さらに、
若し去者に去有らば
則ち二種の去有り
一には去者の去と謂い
二には去法の去と謂う
もし「行く者」が「行く」という作用を用いると言うなら、二つの過ちがある。一つの「行く者」の中に二つの「行く」が存在することになる。一つは、「行く」という法によって「行く者」を成り立たせるための「行く」。もう一つは、「行く者」が(成立した後に)用いる「行く」という法そのものである。(まず「行く者」が成立し、その後にその者が「行く」作用を用いる、というのは正しくない)。だから、先の三つの時間の中に、確定的に存在する「行く者」が「行く」という作用を用いる、ということはありえない。
さらに、
若し去者去くと謂わば
是の人則ち咎有り
去を離れて去者有りて
去者去有りと言う
もし人が「『行く者』が『行く』という作用を用いる」と説くなら、その人には欠陥がある。それは、「行く」という法から独立して「行く者」が存在すると言っていることになる。なぜなら、「『行く者』が『行く』作用を用いる」と言うことは、先に「行く者」がいて、後に「行く」作用がある、ということになるからだ。それは正しくない。したがって、三つの時間の中に「行く者」はいない。
さらに、もし確定的に「行くこと」と「行く者」が存在するなら、そこには「動きの始まり(発)」があるはずだ。しかし、三つの時間の中に「始まり」を求めても得られない。なぜなら、
已去の中に発無く
未去の中にも発無し
去時の中に発無く
何れの処にか当に発有るべき
なぜ三つの時間の中に「始まり」がないのか。
未だ発せざるに去時無く
亦(また)已去有ること無し
是の二に発有るべし
未去に何ぞ発有らん
去無く未去無く
亦(また)復(ま)た去時無し
一切に発有ること無し
何の故に分別する
まだ動き始めていない(未発)状態では、「行っている最中(去時)」もなければ、「すでに行った(已去)」もない。「始まり」があるとしたら、この二つの状態(去時か已去)にあるはずだが、どちらもそうではない。「まだ行っていない(未去)」状態には、まだ始まりがないのだから、どうして「始まり」があるだろうか。「始まり」がないのだから「行くこと」はない。「行くこと」がないのだから「行く者」もいない。それなのにどうして「已去・未去・去時」などと分別するのか。
【問い】 もし「行くこと」も「行く者」もいないのなら、「止まること(住)」と「止まる者(住者)」はあるはずだ。
【答え】
去者は則ち住せず
不去者も住せず
去者・不去者を離れて
何ぞ第三の住有らん
もし「止まること」と「止まる者」があるなら、「行く者」が止まるか、「行かない者」が止まるか、あるいはこの二つ以外の第三の者が止まるはずだ。しかし、どれも正しくない。 「行く者」は止まらない。「行く」という行為が終わっていないからだ。「行く」と相反するのが「止まる」である。 「行かない者」も止まらない。なぜなら、「行く」という法が滅することによって「止まる」という状態があるからだ。「行くこと」がなければ「止まること」もない。 「行く者」と「行かない者」を離れて、第三の「止まる者」はいない。もし第三の「止まる者」がいるとしても、それは結局「行く者」か「行かない者」のどちらかに含まれてしまう。だから、「行く者が止まる」とは言えない。
さらに、
去者若し当に住せば
云何ぞ此の義有らん
若し当に去を離れては
去者 得可(うべ)からざればなり
あなたが言うように「行く者が止まる」のだとしたら、その理屈は成り立たない。なぜなら、「行く」という法から独立した「行く者」は得られないからだ。もし「行く者」が「行く」という相(すがた)の中にあるなら、どうして「止まる」ことがあろうか。「行く」と「止まる」は相反するからだ。
さらに、
去・未去に住無く
去時にも亦(また)住無し
所有の行止の法は
皆去の義に同じ
もし「行く者」が止まると言うなら、その者は「行っている最中」「すでに行った」「まだ行っていない」のいずれかの時間で止まるはずだが、この三つのどこにも「止まる」ことはない。だから、あなたが言う「行く者には止まることがある」というのは正しくない。 ここで「行く(去)」と「止まる(住)」という作用を論破したように、「行(ぎょう、連続)」と「止(し、断絶)」という法もすべて同じ理屈で否定される。「行」とは、穀物の種子から芽・茎・葉へと連続していくようなもの。「止」とは、穀物の種子が滅するから芽・茎・葉も(いずれ)滅するように、断絶することである。また、(十二因縁で言えば)無明を縁として様々な行(ぎょう)が生じ、老死に至るまで続くのが「行」。無明が滅すれば行なども滅するのが「止」である。
【問い】 あなたは様々な論法で「行く・行く者」「止まる・止まる者」を否定するが、眼の前にはっきりと行ったり止まったりする姿が見えるではないか。
【答え】 肉眼で見たものは信じるに値しない。もし本当に「行くこと」と「行く者」があるのなら、それは一つの法として成立するのか、二つの法として成立するのか。どちらにも欠陥がある。なぜなら、
去法は即ち去者なり
是の事は則ち然(しか)らず
去法は去者と異なり
是の事も亦(また)然らず
もし「行く」という法(作用)と「行く者」(主体)が「一体」であるなら、それは正しくない。 もし「行く」という法が「行く者」と「別物」であるなら、それもまた正しくない。
【問い】 一体であること、別物であることには、どんな欠陥があるのですか。
【答え】
若し去法に於て
即ち是れ去者なりと謂わば
作者及び作業
是の事は則ち一と為(な)らん
若し去法に於て
去者と異なりと謂わば
去者を離れて去有り
去を離れて去者有り
この二つはどちらも欠陥がある。なぜなら、もし「行く」法と「行く者」が「一体」であるなら、それは(本来区別されるべき)作者(行為主体)と作業(行為)が一つだということになり、因果関係を乱すことになる。「行く」ことによって「行く者」があり、「行く者」によって「行くこと」があるからだ。また、「行くこと」は法(無常のもの)と呼ばれ、「行く者」は人(常なるもの)と呼ばれる。もし一体なら、両方とも常住であるか、両方とも無常でなければならない。一体であることには、このような欠陥がある。 もし「別物」であるなら、互いに無関係になってしまう。「行く」という法がないのに「行く者」がいたり、「行く者」がいないのに「行く」という法があったりするはずだ。互いに依存し合わない。一方が滅しても、もう一方は存在するはずだ。別物であることには、このような欠陥がある。
さらに、
去・去者は是れ二なり
若し一・異の法にて成らば
二門倶(とも)に成らず
云何(いか)んぞ当に成有るべき
もし「行くこと」と「行く者」という二つのものが、「一体」という理屈か「別物」という理屈で成立するとするなら、そのどちらの道も成り立たない。そして、第三の成立する道はないことはすでに述べた。もし成立すると言うなら、その根拠を説くべきだ。
(結論として)「行くこと」も「行く者」もない。今、さらに説こう。
去に因(よ)りて去者を知るに
是の去を用うること能(あた)わず
先に去法有ること無きが故に
去者去くこと無し
我々は「行く」という法(作用)によって「行く者」を知るのだが、その「行く者」は、その「行く」という法を用いることはできない。なぜなら、その「行く」という法がまだない時には、「行く者」も「行っている最中」も「已去」も「未去」も存在しないからだ。例えば、先に人がいて、城郭があって、初めて何かを起こせる、というのとは違う。「行く者」は「行く」法によって成立し、「行く」法は「行く者」によって成立する(相互依存の関係にある)からだ。
さらに、
去に因りて去者を知るに
異去(いこ)を用うること能わず
一去者の中に
二去を得ざる故に
ある「行く」法によって知られる「行く者」は、それとは別の「行く」法を用いることはできない。なぜなら、一人の「行く者」の中に、二つの「行く」法は存在し得ないからだ。
さらに、
決定せる去者は
三去を用いず
不決定の去者も
亦(また)三去を用いず
去法 定・不定なれば
去者は三を用いず
是の故に去・去者・所去処(しょこしょ)
皆(みな)無し
「決定せる去者」とは、(「行く」という作用とは無関係に)もともと実体として存在する者のこと。そのような者が「行く」という身体の動き(三つの時間、すなわち未去・已去・去時における動き)を用いることはない。もし「決定せる去者」が「行く」という法から独立して存在するなら、それは(動くはずがなく)止まっているはずがない。だから「決定せる去者」は三時の動きを用いない、と説く。 「不決定の去者」とは、もともと実体としてはなく、「行く」という法によってはじめて「行く者」と呼ばれる者のこと。この者も三時の動きを用いない。「行く」という法がないのだから、どうして三時の動きを用いられようか。「行く」法によって「行く者」が成立するのなら、先に「行く」法がなければ「行く者」はいない。どうして「不決定の去者」が三時の動きを用いると言えるのか。 「行く者」と同様に、「行く」という法もまた同じである。
このように思惟し観察すれば、「行く」という法、「行く者」、「行かれる場所(所去処)」、これらのものはすべて互いに依存し合っている(相因待)。「行く」法によって「行く者」があり、「行く者」によって「行く-」法がある。この二つの法によって「行かれる場所」がある。これらが確定的に有るとも言えず、確定的に無いとも言えない。したがって、これら三つの法は虚妄であり、空であって実体はなく、ただ仮の名があるだけで、幻や化け物のようなものであると、はっきりと知るべきである。
1. 帰敬偈(きけいげ)- 八不中道(はっぷちゅうどう)
『中論』の冒頭に置かれたこの偈(詩)は、龍樹の思想全体の出発点であり、結論でもあります。ここには『中論』が解き明かそうとする全てが凝縮されています。
不生亦不滅(ふしょうやくふめつ) 不常亦不断(ふじょうやくだん) 不一亦不異(ふいつやくい) 不来亦不出(ふらいやくふしゅつ)
(縁起せるものは)生じることもなく、滅することもない。 常住でもなく、断滅でもない。 同一でもなく、別々でもない。 やってくることもなく、去っていくこともない。
これは「八つの否定」によって、あらゆる極端な見解(有る・無い、同じ・違うなど)を否定し、物事の真実のあり方(縁起)を示そうとするものです。このどちらにも偏らない立場こそが「中道」であり、『中論』全体のテーマです。
2. 空(くう)と縁起(えんぎ)の関係を示した箇所
『中論』の中心思想は「空」ですが、それは「何もない(虚無)」という意味ではありません。私は、空を虚無だと誤解していました。すべての物事は、それ自体で独立して存在する「実体(自性)」を持たない、ということを意味します。なぜ実体がないと言えるのか、その根拠が「縁起」です。
衆因縁生法 我説即是無 亦為是仮名 亦是中道義 (第24章18偈)
もろもろの因縁によって生じたものは、それを我は「空」であると説く。 それはまた「仮に名づけられたもの」であり、それこそが「中道」の意義である。
この一節は、**「縁起しているからこそ、空である」**という、『中論』の最も核心的な論理を示しています。
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縁起: あらゆる物事は、他のものとの関係性(因縁)によって成り立っている。
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空: だから、それ自体で独立した「実体」はない(=空)。
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仮名(けみょう): 私たちが「机」「私」などと呼んでいるものは、因縁によって仮に成り立っているものに、仮に名前をつけたものに過ぎない。
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中道: このように理解することが、有る・無いといった極端な見方に偏らない正しい道(中道)である。
3. 二諦説(にたいせつ)- 世俗諦と勝義諦
龍樹は、真理には二つのレベルがあると説きます。
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世俗諦(せぞくたい): 世間一般の常識や、言葉によって表現されるレベルの真理。私たちが日常で使う「机がある」「人がいる」といった認識の世界。
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勝義諦(しょうぎたい)、第一義諦: 言葉や分別を超えた、究極の真理。すなわち「空」のこと。これが難しいところです。
この二つの真理の関係について、龍樹は次のように述べています。
若不依俗諦 不得第一義 不得第一義 則不証涅槃 (第24章10偈)
もし世俗諦によらなければ、第一義諦(勝義諦)を理解することはできない。 第一義諦を理解できなければ、涅槃を証することはできない。
これは、言葉の世界(世俗諦)を全く無視して、いきなり究極の真理(勝義諦)を掴むことはできない、ということを示しています。仏の教えもまた、言葉(世俗諦)を用いて説かれています。私たちはまず、この言葉の教えを手がかりとして、その先にある言葉を超えた真理を目指すべきである、という実践的な視点を示した重要な箇所です。
4. 涅槃(ねはん)と世間(せけん)の無差別
究極的な境地である「涅槃(悟りの世界)」は、私たちが生きる「世間(迷いの世界)」と全く別の場所にあるわけではない、と龍樹は説きます。
涅槃与世間 無有少分別 世間与涅槃 亦無少分別 (第25章19偈)
涅槃と世間との間には、いささかの区別もない。 世間と涅槃との間にもまた、いささかの区別もない。
これは、物事の真実のあり方(=空)を正しく見ることができれば、この迷いの世界(世間)がそのまま悟りの世界(涅槃)であると知ることができる、という大乗仏教の究極的な立場を示したものです。
まとめ
『中論』で大事なところを要約すると、以下のようになります。
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出発点(八不中道): あらゆる極端な見解を否定し、「中道」の立場を宣言する。
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核心理論(空と縁起): すべては関係性(縁起)によって成り立つため、実体がない(空)と論証する。
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実践的視点(二諦): 言葉の世界(世俗諦)を手がかりとして、言葉を超えた真理(勝義諦)を目指すことを示す。
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究極の結論(涅槃と世間): 迷いの世界のありようを正しく見れば、そこがそのまま悟りの世界であると明らかにする。
これらの要点は、互いに深く関連し合っており、『中論』全体の論理構造を形作っています。これらの箇所を理解することが、『中論』、ひいては大乗仏教の思想を理解する上での鍵となります。
参考WEBリンク