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手放すことで見えてくる世界 その5:「手放す」と「任せる」の大きな違い

これまでの話で、執着を氷に、手放した心を水に例えました。この「手放す」という行為が、煩悩を悟りに「転じる」ことだとすれば、それはどうやって起こるのでしょうか。

 

また、日本の仏教には浄土真宗の「阿弥陀仏に任せる」という考え方もあります。これは禅の「手放す」と似ているようで、どこか違う気もします。シリーズ最終回は、この「手放す」ことの核心と、他の教えとの関係について探ります。

 

1. 「手放す」ことが「転じる」ことに繋がるか?

まさしく、その通りです。煩悩即菩提を氷と水に例えるなら、「手放す」ことこそが、氷を水へと「転じる」ための具体的な作用と言えます。

  • 氷(煩悩):執着という「冷やす力」が、心を固め、融通の利かない「煩悩」という氷の状態にしてしまいます。
  • 転じる(融ける):この熱にあたるのが「手放す」という心の働きです。執着という力を抜けば、あとは自然の摂理として、氷は本来の姿である水へと還っていきます。

 

つまり、「手放す」ことによって、煩悩が「転じて」菩提(悟りの智慧)の働きへと自然に変化する、と禅では考えます。

 

2. 浄土真宗の「任せる」は、禅の「手放す」と同じ働きか?

結論から言えば、行き詰まりを打破するという「働き」においては、両者は驚くほど似ています。しかし、その心のメカニズムと拠り所は対照的です。

 

共通する「働き」

  • 自力の限界点から始まる:どちらも、自分の力ではどうにもならなくなった「行き詰まり」の地点で起こります。
  • 自我の放棄:「自分が何とかする」という自我の計らいを、全面的に放棄(サレンダー)する点で共通しています。
  • 解放と安らぎ:その結果、心が葛藤から解放され、安らぎや思いがけない道が開けるという体験がもたらされます。

 

対照的な「仕組み」

  • 禅の「手放す」【自力門】 修行の実践を自らの主体的な営みとして始める、自分自身の心の内に働きかけるアプローチです。拠り所は「自己の内なる仏性」であり、坐禅などの実践を通してそれを体得しようとします。その意味で、自己の実践を頼りとする「自力」の道とされます。(例え:自分で薪をくべ、自分の力で氷を温めて融かすイメージ。ただし、その実践の極みにおいて、自力そのものが手放される境地が説かれます)

 

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    浄土真宗の「任せる」【他力門】 自分の力では到底救われない罪深き凡夫(悪人)であると徹見し、自己の外にある絶対的な存在(阿弥陀仏)にすべてを委ねるアプローチです。拠り所は、常に私たちに先立って働いている「阿弥陀仏の本願力」という絶対他力です。もともと阿弥陀仏の力によって生かされていることに、「南無阿弥陀仏」の名号の働きによって気づかされ、ただお任せするのです。(例え:自分の力ではどうにもならない氷が、阿弥陀仏という広大な太陽の光に照らされ、自然に融けていくのをただ受け入れるイメージ)つまり、任せた結果を受け入れることが大事です。

まとめ

禅の「手放す」は、自分の心のハンドルを「握りしめる」のをやめることです。浄土真宗の「任せる」は、そのハンドル自体を「阿弥陀仏にお渡ししてしまう」ことです。

 

どちらも、「私がコントロールする」という自我の働きをやめることで、氷が融けるという同じ結果(働き)に至ります。しかし、そのプロセスは、内なる仏性を頼るのか、外なる絶対者を頼るのかという点で、全く異なる道筋をたどります。この二つのアプローチは、人間の心の救済に対する、仏教が生み出した二つの偉大な智慧と言えるでしょう。

 

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【お読みいただくにあたって】 本記事は、仏教の教えについて筆者が学習した内容や私的な解釈を共有することを目的としています。特定の宗派の公式見解を示すものではありません。 信仰や修行に関する深い事柄や個人的なご相談については、菩提寺や信頼できる僧侶の方へお尋ねください。