月影

日々の雑感

親鸞の「信」と、道元の「悟り」

親鸞が明らかにした「」とは、私たち凡夫を救うために、阿弥陀如来から一方的に与えられる(回向される)ものです。その「信」は、人間が自らの力で「自我を捨てて任せる」ことによって得るのではなく、むしろ、阿弥陀仏から「信」が与えられた結果として、「すべてを任せる」という心の状態になり、お念仏が口からあふれ出る、と説かれます。

 

「自我」という氷が、阿弥陀仏の光明(智慧)の働きによって溶かされ、本願の大きな流れ(水)に合一することが「信」であり、その喜びと感謝が「南無阿弥陀仏」というお念仏になるのです。このため、浄土真宗では、すべては仏様の側からの働きである「他力」を最も大事にします。そして、その救い主である阿弥陀如来とは、言葉で捉えられない究極の真理(自然じねん)が、私たちに分かるように仮の姿(言葉として)で現れたものである、と考えられています。

私見ですが、私たちは、目に見えない大いなる働き(自然じねん)によって生かされているにもかかわらず、その事実に気づかず、自分の力だけで生きていると思い込んでいます。その「自分」という思い込みと執着こそが、苦しみの根源なのでしょう。阿弥陀仏は、私たちをそのありのままの真実に目覚めさせ、救うために、究極の真理そのものである「南無阿弥陀仏」という言葉(名号)を、私たちに一方的に与えてくださった(回向された)と、このように理解することもできるのではないでしょうか。

 

道元の「悟り」とは「身心脱落」して無我になり悟りの境地に達するものとしました。道元も自我という氷が溶けて水になることで、すでにある悟りの世界と一体になると考えたのです。

 

正法眼蔵の生死の巻に以下の言葉があります。

(現代語訳) 「ただ、自分の身体も心も、それらに対するこだわり(我執)をすべて解き放ち、忘れ去って、仏の家に(仏の教え、あるいは宇宙の真理そのものに)すっかりと投げ入れてしまうのです。そうして、仏の側からの働きに導かれ、それにただ従ってゆくとき、力むこともなく、心をすり減らすこともなく、自然に生と死の苦悩から解放され、仏となることができるのです」

 

親鸞の「信」と道元の「悟り」は、入り口や教えの立て方は全く異なりますが、その根底にある「我」の破産と、その先に開かれる大いなる真理への全面的な帰依という点において、同じ頂から見える景色を語っていると言えます。道元自身の言葉が、その事実を何よりも雄弁に証明しています。

 

1. 「我」の破産という共通の出発点

 

両者の精神的な旅路は、それぞれの方法で「我」が破産するという、共通の劇的な体験から始まります。

  • 親鸞の「我」の破産 比叡山での20年の修行で、「自力で悟ろうとする我」が完全に砕け散り、「もう自分ではどうしようもない」と降参したとき、初めて他力の世界、すなわち大いなる真理の働き(自然じねん)へと目が開かれました。

  • 道元の「我」の破産 道元もまた、「悟りという何かを掴み取ろうとする我」を突き詰めた末に、その執着を捨て去ります。「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれ」ること。この「身心脱落」こそが、道元における「我」の破産です。

 

2. 破産の先に開ける世界:驚くほど響き合う言語

 

「我」が破産した先に、両者は大いなる真理の働きに人生を委ねる境地へと至ります。驚くべきは、その境地を説明する言葉が、一方は「他力」、一方は「自力」の宗祖であるにもかかわらず、深く響き合っている点です。

  • 親鸞の言語:「自然」に摂め取られる 親鸞にとって、大いなる真理の働きとは「自然(じねん)」でした。それは「阿弥陀仏」という人格的な方便(ほうべん)となって現れ、私たちを救いへと向かわせます。 私たちがすべきことは、「南無阿弥陀仏」と称え、ただこの働きかけを信じ、全てを任せること。そうすれば、「自然」の働きの中に摂(おさ)め取られ、この世で「正定聚(しょうじょうじゅ)」の位に至り、絶対的な安心(あんじん)をいただくのです。

  • 道元の言語:「仏のかたよりおこなはれる」 道元が語る境地もまた、驚くほど他力的です。彼が説くのは、「我」を投げ入れた後、「仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆく」という状態です。これは、自分の力で進むのではなく、仏の側からの働きに導かれ、それにただ従ってゆくという、完全な委ねの姿です。 その結果もまた、「ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる」と説かれます。これは、人間の計らいを超えた、親鸞の言う「自然」の働きの結果と見事に重なります。

 

結論:同じ頂、同じ言葉

 

これらを踏まえると、両者の到達点は、もはや「自力」「他力」という分類が無意味になるほど酷似しています。

  • 親鸞は、**「弥陀にすべてを任せる」**と言いました。

  • 道元は、**「仏のいへにわが身心をなげいれる」**と言いました。

  • 親鸞は、**「自然の働きに摂め取られる」**と説きました。

  • 道元は、**「仏のかたよりおこなはれて、それに従う」**と説きました。

親鸞の「信」とは、道元が「生死」の巻で示した「我」を忘れ、仏の働きに導かれるままに従ってゆくという境地を、阿弥陀仏という存在を通して、万人に向けて徹底的に明らかにしたものと言えるでしょう。

両者は異なる山道を登りましたが、その山頂で見た景色、そしてその景色を語る言葉までもが、時と立場を超えて、同じ真実を指し示していたのです。

【お読みいただくにあたって】 本記事は、仏教の教えについて筆者が学習した内容や私的な解釈を共有することを目的としています。特定の宗派の公式見解を示すものではありません。 信仰や修行に関する深い事柄や個人的なご相談については、菩提寺や信頼できる僧侶の方へお尋ねください。

参考WEBサイト

私的研究室-10 親鸞聖人の信の構造

親鸞聖人御消息 (現代語版)

ネルケ無方の処方箋 VOL.05 恋すること、愛すること | 公益財団法人仏教伝道協会 Society for the Promotion of Buddhism

曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)

道元が到達した豁然大悟 - NHKテキストビュー|BOOKSTAND