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日々の雑感

手放すことで見えてくる世界 その2:「努力」せずに穏やかでいる方法

禅の教えで「生き切る」ことを目指そうとすると、「穏やかな心でいるべきなのに、必死に努力している」という矛盾にぶつかることはないでしょうか。「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言いますが、それは歯を食いしばる我慢なのでしょうか、それとも穏やかな境地なのでしょうか。今回は、この「努力」と「穏やかさ」のパラドックスについて考えてみます。

 

「生き切る」ために「努力」が必要となると、それが悟りの「穏やかな心境」とは相容れないように感じられるのは自然なことです。この一見矛盾に見える点を解き明かすのが、禅の奥深さと言えるでしょう。禅の考え方では、「穏やかな心境で生き切る」ことは、私たちが普段考えるような「努力」とは少し質の異なるアプローチを取ります。

 

1. 「努力」の質の違い:「手放す」ための実践

まず、「死を忘れて生のことしか考えない」というのは、むしろ逆です。禅では「生死一如」、つまり生と死は一つだと考えます。死を無理に忘れようとするのは、死を恐れ、生に執着している心の表れです。そうではなく、死というものを生の自然な一部として静かに受け入れるところから始まります。

 

また、「今の刹那のやってる事だけ考えて、それ以外のことは考えないように努力する」というのも、少しニュアンスが異なります。「考えないように努力する」という行為自体が、新たな緊張や葛藤を生み出してしまいます。

 

禅で言う「努力」や「修行」とは、力んで何かを達成しようとすることではなく、むしろ余計な力みや執着を手放していくための実践です。坐禅を組むのも、雑念を無理やり消そうとするのではなく、「雑念が浮かんでは消えていく」という心の働きを、ただ静かに観察し、その都度、今の呼吸や身体の感覚に意識を戻す、ということを繰り返します。青年僧の悟りの体験記を見てると禅の悟りに至るにはちゃんとした師が必ず必要であることがわかります。

 

この「戻す」という行為が、禅的な意味での「努力」に近いかもしれません。それは、力ずくの努力ではなく、しなやかで、粘り強い、繰り返しです。

 

2. 「穏やかな心境」とは:静的な無ではなく、動的な調和

悟りの「穏やかな心境」とは、何も感じない、何も考えない、空っぽの静かな状態ではありません。それは、あらゆる状況の中で、心の中心が揺らがない状態を指します。

 

例えば、剣の達人は、斬り合いという極限状況の中で、心は驚くほど静かだと言われます。心を「無心」にすることで、身体は最も自然で合理的な動きをすることができるのです。この状態は、静的で何もしない状態ではなく、非常にダイナミックでありながら、内面は静かで澄み渡っている状態です。

 

「生き切る」とは、この達人のように、人生の様々な局面において、心を揺らさず、その瞬間瞬間に為すべきことを為していく姿と言えます。

 

結論:どうすれば良いか

では、どうすればその境地に至れるのか。禅の答えは非常にシンプルです。「ただ、今為すべきことを、為す」。

 

これを繰り返すことで、過去への後悔や未来への不安といった、心を乱す「はからい」が自然と減っていきます。そして、力ずくで「生き切ろう」と努力するのではなく、気づけば、夢中で生きている、生き切っている。その時の心は、余計なものが削ぎ落とされ、非常に穏やかで、満ち足りたものになっているはずです。

 

心頭滅却すれば火もまた涼し」という言葉も、熱さを我慢するという意味ではなく、火という現実をそのまま受け入れ、心が動じなくなった結果、熱さが苦にならなくなる境地と解釈できます。

 

力んで悟りを目指すのではなく、日々の生活の中での一つ一つの実践が、結果として穏やかで充実した「生き切る」という境地につながっていく。これが禅の示す道筋と言えるでしょう。

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【お読みいただくにあたって】 本記事は、仏教の教えについて筆者が学習した内容や私的な解釈を共有することを目的としています。特定の宗派の公式見解を示すものではありません。 信仰や修行に関する深い事柄や個人的なご相談については、菩提寺や信頼できる僧侶の方へお尋ねください。

参考

生き方への問い、考案で学ぶ禅の問答集 武田鏡村 河出書房出版社

執着しない生き方 | 臨済宗大本山 円覚寺

イス坐禅深まる | 臨済宗大本山 円覚寺

ある青年僧の大悟、そしてその後の身心脱落│ダルマサンガ

為すべきことを為す | 曹洞宗 長雲山 龍泉寺