手放すことで見えてくる世界 その1:生と死の対立を超える
禅の言葉に「生は生を徹して生きる、死は死に徹して死に切ること」というものがあります。この力強くも、どこか逆説的な言葉に、強く心を惹かれます。ただ生き、ただ死ぬ。それがなぜ、生と死という根源的な対立を超えることに繋がるのでしょうか。
この深遠なテーマを、自分なりに納得できるまで探求していく5回に分けたブログシリーズを始めたいと思います。今回は、まずこの言葉の出発点となる禅の公案を見ていくところから始めましょう。
洞山の公案:「無寒暑のところ」
私が手に取った『禅の問答集ー生き方への問い 公案で学ぶ』という本に、次の公案が紹介されていました。『碧巌録』第四三則です。
一人の僧が、洞山(とうざん)に問うた。「寒い時、熱い時、どこに行って寒暑を避けたらよいでしょうか」
洞山はいう。「どうして寒暑の無いところに行かないのか」
僧はいう。「その無寒暑は、どこにありますか」
洞山はいう。「寒き時は闍黎(しゃり)を寒殺(かんさつ)し、熱き時は闍黎を熱殺(ねっさつ)する。それが無寒暑のところだ」
(中略)
「寒い時は貴僧は寒さに徹し、熱い時は貴僧は熱さに徹しきれ、それが寒暑の対立を超えるものだ」
これは生死も同じで、生は生に徹して生きる、死は死に徹して死にきること、これが生死の対立を超えるものとなり、一切の対立関係も、これによって乗り越えることができると洞山は示したのです。
『碧巌録』第四三則より
「徹する」ということ
この言葉の鍵となるのは「徹する」という部分です。
- 生を徹して生きる: これは、ただ漫然と日々を過ごすことではありません。今、この瞬間の「生」に全身全霊で没入し、喜び、悲しみ、怒り、楽しみといった生のあらゆる側面を、判断や評価を加えることなく、あるがままに受け入れ、味わい尽くすことを意味します。過去への後悔や未来への不安といった雑念から離れ、純粋に「生きる」という行為そのものになりきる状態です。
- 死に徹して死に切る: 同様に、死を単なる生の終わりや恐怖の対象として捉えるのではありません。死が訪れたときには、それを受け入れ、静かにその過程に身を委ねることを意味します。生への執着や死への恐怖から解放され、死という現実をありのままに受け入れることで、死に完全に徹するのです。
では、なぜそれぞれに「徹する」ことが、生死の対立の乗り越えに繋がるのでしょうか。それは、私たちが苦しむのは、生と死を「対立するもの」「二元的なもの」と捉え、一方(生)に執着し、他方(死)を拒絶しようとする心のはたらきに原因があるからです。生死一如という言葉があり、空の思想から生も死も固定的な実体を持たないとの考え方があります。
道元禅師の教え:「生」と「死」の位
禅の思想、特に道元禅師の「正法眼蔵」における「生死(しょうじ)」の考え方では、生と死は時間的な連続性の中で移行するものではなく、それぞれが独立した「位」であるとされます。「生」という位にいるときは「生」しかなく、「死」という位にいるときは「死」しかありません。つまり、「生」の真っ只中に「死」の心配はなく、「死」の瞬間に「生」への未練もないのです。
また、『この生死は、すなはち仏の御いのちなり』とも言っています。
「この生死とは、すなわち仏の御命そのものである。これを厭い捨てようとするならば、それは仏の御命を失おうとすることに他ならない」
私見ですが、これは次のように感じられます。私たちが体験する「生きること」と「死ぬこと」、そのどちらもが、仏の命そのものの現れである。私たちは、生きている時は仏の命の現れとして生きており、死に向かう時もまた、仏の命の現れとして死へと向かっている。
生きていることに感謝できるように、やがて訪れる死という命の側面も、静かに受け入れていくべきなのかもしれません。生の苦しみから逃げるために死を願うのではなく、喜びも苦しみも、生と死の両方を含むこの命の全体を、尊いものとして受け止める。そのように考えた時、心が少し軽くなるように思えます。また、こちらの方がすっきりします。
📖『正法眼蔵』「生死」の現代語訳(クリックして展開)
生死のまっただ中に仏が在るならば、本来、生や死というものは存在しないのである。また、ある人はこう言う。「生死のまっただ中に仏がいないからこそ、私たちは生死に惑わされることはない」と。
この言葉は、夾山(かっさん)と定山(じょうざん)という二人の禅師の言葉である。悟りを得た人の言葉なのだから、決していい加減なものではないだろう。
生と死から解脱したいと願う人は、まさしくこの道理を明らかにしなければならない。もし人が、生死の外に仏を求めようとするならば、それはまるで、船の先を北に向けたまま南の越の国へ向かおうとしたり、顔を南に向けたまま北斗七星を見ようとしたりするようなものである。そのようなことをすれば、ますます生死に迷う原因を積み重ね、かえって解脱への道を見失ってしまうだろう。
ただ、「生死そのものが涅槃(ねはん)である」と理解しなさい。そうすれば、生死をことさらに厭うべきものでもなく、涅槃をことさらに願うべきものでもなくなる。このとき初めて、あなたは生死から自由になることができるのだ。
「生から死へと移り変わっていく」と考えるのは、間違いである。生は、それ自体で独立した一瞬の位であり、それ以前もあれば、それ以後もある。だからこそ仏法では、「生とはすなわち不生(生まれることのない境地)である」と説くのだ。死もまた、それ自体で独立した一瞬の位であり、それ以前もあれば、それ以後もある。だから、「死とはすなわち不滅(滅びることのない境地)である」と説く。
「生」というときには、生の外に何もなく、「死」というときには、死の外に何もない。であるから、生が来たならば、ただそれに向き合って生きなさい。死が来たならば、ただそれに向き合って死になさい。それを厭うことも、願うこともないように。
この生死とは、すなわち仏の御命そのものである。これを厭い捨てようとするならば、それは仏の御命を失おうとすることに他ならない。また、この生死に執着してとどまろうとすることも、同じく仏の命を失い、仏の本来の姿をそこなうことになる。
生死を厭うことなく、また、涅槃を慕い求めることもない。このとき初めて、仏の心に入ることができるのである。
ただし、これを自分の心で推し量ってはならない。言葉で表現しようとしてもいけない。ただ、自分の身体も心もすべて手放して仏の世界に投げ入れ、仏の導きによって行いがなされ、それにただ従っていくとき、力むことも、心をすり減らすこともなく、生死から解脱し、仏となることができる。誰が、心にこだわりを持つ必要があろうか。
仏となるには、非常にたやすい道がある。それは、あらゆる悪事をなさず、生と死に執着する心を持たず、すべての生きとし生けるもののために深い慈悲の心を抱き、目上の人を敬い、目下の者を憐れみ、あらゆる物事を厭う心がなく、何かを願う心もなく、心に何のわだかまりも思い煩うこともない、そのような人のことを「仏」と名付けるのである。決して、自分の外に仏を探し求めてはならない。
結論:生死一如の境地へ
この観点から見ると、「生を徹して生きる」とは、「生」という位を全うすることであり、「死に徹して死に切る」とは、「死」という位を全うすることに他なりません。それぞれの位を完全に生き切ることで、「生か死か」という二者択一の葛藤そのものが消滅します。
この考え方は、「生死一如(しょうじいちにょ)」、すなわち生と死は本来一つであるという境地へと繋がります。生と死は、コインの裏表のように、一つの現実の異なる側面に過ぎません。
この真理を体感的に理解するとき、私たちは生への執着や死への恐怖という苦しみから解放されます。それは、死を恐れなくなるということ以上に、今この瞬間の「生」を、より豊かに、より深く、そして感謝をもって生きられるようになることを意味します。良寛和尚が辞世の句で「うらを見せおもてを見せてちるもみじ」と詠んだように、もみじの葉が裏も表も隠すことなく散っていく姿は、まさにこの在り方を象徴しています。美しく色づく様(生)も、やがて散りゆく様(死)も、全てが自然の摂理の一部なのです。