毎日を忙しく過ごしていると、ふと立ち止まり、自分自身の心と向き合う時間を忘れてしまいがちです。禅や自己探求というと、「内なる本当の自分を探す」「自分の中に眠る仏心に気づく」といったイメージを持つ方が多いかもしれません。
私も参考文献の「生き方への問い、考案で学ぶ禅の問答集」を読んで、「仏は心か否か、即心即仏」(63ページ)という項から心と仏の関係に興味を持ち、探求を始めました。
しかし、曹洞宗の開祖である道元禅師は、そうした「内側を探す」という一般的なイメージを根底から覆す、非常に深く、ラディカルな「仏性(ぶっしょう)」観を示しました。
「仏性は私たちの内に”ある”のか?」 「もし本来、仏であるなら、なぜ苦しい修行が必要なのか?」
この記事では、道元禅師の言葉を手がかりに、この禅の根本的な問いに迫ってみたいと思います。
ステップ1:私たちが陥りがちな「仏性」の誤解
まず、多くの人が直感的に理解しやすい「仏性」の考え方を見てみましょう。それは、有名な『涅槃経』の「一切衆生悉有仏性」という言葉から、「仏性は、私たちの内側に秘められた仏に成る可能性であり、座禅などの修行によってそれを磨き出す」という考え方です。
これは「仏性内在論」とも呼ばれ、非常に分かりやすいものです。しかし、道元禅師は、この考え方ですら「凡夫の情量なり(未熟な凡人の考えである)」として、厳しく退けました。
ステップ2:道元禅師の画期的な仏性観「悉有は仏性なり」
では、道元禅師は「仏性」をどう捉えたのでしょうか。 彼は「一切衆生悉有仏性」という経文を、伝統的な読み方とは違う、非常にユニークな読み方をします。
「一切衆生は、悉く仏性を有す(持っている)」 と読むのではなく、 「悉有(しつう)は仏性なり」 と、文をまっすぐに読むのです。
「悉有」とは、生き物(衆生)だけでなく、山も川も、草も木も、道端の石ころに至るまで、この宇宙に「存在するすべてのもの」、森羅万象そのものを指します。
つまり道元禅師にとって仏性とは、私たちが「内に秘める可能性」などではなく、「この世界の存在すべてが、ありのままの姿で、まるごと仏性そのものである」という、壮大な宣言なのです。
しかし、ここで新たな疑問が生まれます。 「世界のすべてが、すでに仏性だというなら、なぜ修行をする必要があるのか?」 これは、若き日の道元禅師自身が悩み、命がけで答えを求めた問いでもありました。
ステップ3:核心へ – なぜ修行が必要なのか?「修証一等」の思想
この問いへの答えにこそ、道元禅師の思想の核心があります。
道元禅師は、「山河大地が仏性である」という真実は、あくまで「証(さとり)」の側から見た世界の本当の姿(本証・ほんしょう)なのだと説きます。迷いの最中にある私たちにとっては、山は山、川は川にしか見えません。そこに仏性を見ることはできません。
では、どうすればその真実に触れられるのか。 その「本証」を、この身をもって「実証」する営みこそが、「修(しゅ)」、すなわち修行なのです。
そして、道元禅師は仏教思想史においても画期的な「修証一等(しゅしょういっとう)」という考えを打ち立てます。これは、修行と悟りは別々のものではなく、完全に一体である、という思想です。
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誤解されがちな考え: 修行(原因)を積み重ねて、未来にある悟り(結果)を得る。
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道元禅師の考え: 修行しているその姿こそが、すでに悟りの現れ(仏性の働き)である。
座禅は、悟りというゴールにたどり着くための苦しい「手段」ではありません。ただひたすらに坐る(只管打坐・しかんたざ)という行いそのものが、仏性の完全な表現であり、悟りの実践なのです。
仏心と仏性:私たちはその「中」にいる
では、「仏心(ぶっしん)」と「仏性」はどのように考えればよいのでしょうか。
これまで見てきたように、道元禅師は仏性を、私たちを包む世界の真実そのもの(悉有)として捉えました。実は「仏心」についても、同じように雄大な見方があります。臨済宗の禅僧、朝比奈宗源老師は、その境地をこう示しました。
人は仏心の中に生まれ 仏心の中に生き 仏心の中に息を引き取る
この言葉は、私たちが仏心を「所有」するのではなく、仏心という大きな存在の「中に」生まれ、生かされていることを美しく示しています。
道元禅師の「悉有は仏性なり」という言葉も、朝比奈老師のこの言葉も、同じ方向を指し示しています。仏性とは、世界のありのままの真実の姿。そして仏心とは、その真実が私たちを包み込んでいる大いなる慈悲そのもの。 この二つは、同じ一つの雄大なリアリティを、違う側面から照らした言葉と捉えることができるでしょう。
日常生活で「修証一等」を生きるヒント
この深遠な教えも、私たちの日常と無関係ではありません。
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「今、ここ」の行いに徹する: 食事をするときは、ただ食べるという行いに成りきる。掃除をするときは、ただ掃除という行いに徹する。未来の結果を求めるのではなく、その行いそのものを丁寧に行うことが、「修証一等」の日常的な実践です。
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世界のありのままを観る: 良い・悪いと頭で判断する前に、雨の音、風の匂い、木々の緑といった「悉有(森羅万象)」を、ただ静かに感じてみる。それこそが、修行を通して「仏性」に触れる感覚に近いのかもしれません。
まとめ
道元禅師が示す道は、「自分の中に何か特別なものを探す」道ではありません。それは、仏心・仏性という、自分を包み込む広大な真実を、今この瞬間の「行い」を通して、全身全霊で生きていくという、どこまでも実践的な道です。
それは、遥か遠いゴールを目指す苦しい道のりではなく、私たちの一歩一歩の歩み、一瞬一瞬の行いそのものが、すでに尊い悟りの実践なのだと教えてくれる、希望に満ちた教えなのです。
【お読みいただくにあたって】 本記事は、仏教の教えについて筆者が学習した内容や私的な解釈を共有することを目的としています。特定の宗派の公式見解を示すものではありません。 信仰や修行に関する深い事柄や個人的なご相談については、菩提寺や信頼できる僧侶の方へお尋ねください。