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日々の雑感

煩悩即菩提とは?「悩みがあるから悟りがある」という仏教の逆転発想 (シリーズ:煩悩即菩提を考える 第1回)

「悩みや欲望(煩悩)があるから、私たちは苦しむのだ」 「幸せになるためには、これらのネガティブな感情を消し去らなければならない」

私たちは、普通そう考えがちです。

しかし、仏教には、この常識を根底から覆す**「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」**という、非常にユニークでパワフルな言葉があります。

これは、一言でいえば**「悩みや苦しみ(煩悩)と、心の安らぎである悟り(菩提)は、実は同じ根っこから生まれている」**という考え方です。

悩みや苦しみを無理になくそうとするのではなく、その真っ只中にこそ、本当の救いや悟りへの道がある──。 今回は、仏教における「救い」の概念を根本から変えた、このラディカルな発想の転換について、その入口を紐解いていきます。

 

昔の仏教:悩み(煩悩)は「断ち切る」ものだった

 

初期の仏教では、「煩悩」と「菩提」は、水と油のように決して混じりあわない、正反対のものだと考えられていました。

  • 煩悩(ぼんのう):人を悩ませる欲望、怒り、執着など。

  • 菩提(ぼだい):煩悩を断ち切った、安らかで真理を悟った境地。

そのため、悟りを開くためには、厳しい修行によって煩悩を一つひとつ、まるで雑草を根こそぎ引き抜くように断ち切ることが、絶対に必要だとされていました。

 

新しい仏教:悩みと悟りは「地続き」という大転換

 

しかし、お釈迦さまが亡くなってから数百年後、「大乗仏教」という新しいムーブメントが起こります。その中心にあったのが、南インドの龍樹(りゅうじゅ)らが提唱した**「空(くう)」**という思想でした。

これは「この世のすべての物事には、固定化された不変の実体はない」という、非常に重要な考え方です。

この「空」の視点に立つと、どうなるでしょうか。 「煩悩」という、絶対的に汚れた実体があるわけではない。 「悟り」という、絶対的に清らかな実体があるわけでもない。

つまり、両者は本質的には別々のものではなく、深くつながっていると考えられるようになったのです。これが「煩悩即菩提」の思想的な土台となりました。 この発想の転換は、単なる理屈遊びではありません。修行の方法や、「人間とは何か」という問いに対する答えそのものを、根底から覆す大きな変化でした。

 

二人の案内人:親鸞と一休

 

この奥深い「煩悩即菩提」の教えを、私たちはどう生きれば良いのでしょうか。 この記事シリーズでは、その道を体現した、対照的な二人の巨人を「案内人」として、その生き様に迫っていきます。

  • 親鸞(しんらん):浄土真宗の開祖 自らの煩悩の深さに絶望し、自分の力(自力)を諦め、ひたすら仏の慈悲(他力)にすべてを任せるという「絶対的な信仰」の道を選びました。

  • 一休宗純(いっきゅうそうじゅん):室町時代の禅僧 常識にとらわれない破天荒な言動や詩によって、「物事に善悪などの区別はない」という真理を、自らの生き方そのもので表現しました。

一見、全く正反対に見える二人の生き方。 しかし、両者は「悟りとは、悩みから逃げた先にあるのではなく、まさにその渦中でこそ見出される」という、同じ真理にたどり着いています。

今回は、まずこの革命的な思想が生まれた歴史的背景をご紹介しました。 次回からは、この二人が示した、力強い二つの生き方のモデルを、具体的に見ていくことにしましょう。

 

今日の一句

空(くう)である 煩悩菩提 同じこと 他力自力も 悟る道あり