月影

日々の雑感

禅僧・一休宗純が問い続けた「悟り」とは?『狂雲集』から紐解くその

一休宗純の思想や生き方を深く知る上で欠かせないのが、彼の詩を集めた『狂雲集』です。この詩集には、一休が追い求めた「悟り」の多面的な姿が鮮やかに描かれています。時に激しく、時に優しく、そして時に俗世と交わりながら表現された一休の悟りの世界を、『狂雲集』に収められた詩句から探ってみましょう。


悟りの瞬間と苦悩:『狂雲集』に見る一休の心の軌跡
一休の「悟り」は、決して一つの形に収まるものではありません。そこには、突然訪れるひらめきのような瞬間もあれば、長く続く苦悩の果てに見出すもの、あるいは若き日の清らかな心象風景、そして俗世の只中にあるものまで、多様な側面が表現されています。


① 大悟を得たときの偈:日常の中に光を見出す
「十年以前識情心 瞋恚豪機在即今 鴉笑出塵羅漢果 昭陽日影玉顔吟」
現代語訳: 十年もの間、欲や怒りに心を囚われていた。しかし今、烏(からす)の一声に汚れを脱いで羅漢の境地を得た。朝日の中、晴れやかな顔で詩を吟じる。


これは、一休が師である華叟から印可(悟りを認められること)を得た際の詩とされています。
この詩は、「悟り」が特別な修行の末に訪れるだけでなく、日常のささいな出来事の中にこそ、そのきっかけが潜んでいることを示唆しています。朝日の中で晴れやかに詩を吟じる姿からは、長年の執着から解放された喜びが伝わってきます。


② 懐古(ふかく過去を思い起こす詩):悟りの「はかなさ」
「愛念愛思 胸次を苦しむ 詩文忘却一字無し 唯悟道有って道心無し 今日猶愁う生死に沈まんことを」


現代語訳: 愛と想いに胸が苦しい。詩文は忘れられない一字もない。ただ悟りの道はあるが、それを支える心がない。今日もまだ、生と死への憂いに沈む。


この詩は、一休が悟りを得た後も、人間としての苦悩や迷いから完全に解放されたわけではなかったことを示しています。悟りは永遠のものではなく、常に問い続け、向き合い続けるものであるという、一休の率直な心情が表れています。


③ 春夢の詩(十代作品・若き日の清らかな悟り):自然との一体感
「吟行客袖幾詩情 開花百花天地清 枕上香風寐耶寤 一場春夢不分明」


現代語訳: 旅人は詩情を袖にたたえ、百の花が開き天も地も清い。枕もとに香る風に、寝たのか覚めたのか分からぬまま、ひと場の春の夢が薄れてゆく。


15歳の頃に詠まれたとされるこの詩は、若き一休の純粋で清らかな心の状態を伝えています。旅人が詩情を袖に、百の花が咲き乱れる清らかな天地の中で、自然と一体になった心境が表現されています。これは、後の「煩悩即菩提」の思想にも通じる、若き日の清澄な悟りの姿と言えるでしょう。


④ 婬坊(色情と悟りの狭間で遊ぶ):俗と聖の逆説
風狂狂客起狂風 來往婬坊酒肆中 … 美人の雲雨 愛河深し」


現代語訳: 風狂の狂客(=一休)が狂風を起こし、妓楼や酒場をさまよう。頭の中には“愛の河”が深く流れている。


一休の生涯の中でも特に物議を醸したのが、彼が妓楼や酒場に出入りし、時に色欲を肯定するような詩を詠んだことです。この詩では、自らを「風狂の狂客」と称し、淫欲の中にこそ悟りがあるという大胆な思想が示されています。


これは、煩悩を完全に断ち切るのではなく、煩悩そのものを肯定し、その中に悟りを見出す「煩悩即菩提」の思想を体現したものです。俗世の欲望を否定せず、むしろそこに身を置くことで、真の悟りへと近づこうとした一休の姿勢が読み取れます。


「捨てること」「空(くう)」の思想:煩悩からの解放
一休の悟りは、煩悩を捨て去るだけでなく、「捨てること」そのものをありのままに受け入れるという、より深い境地へと繋がっています。そこには、「空(くう)」という禅の重要な概念が深く関わっています。


① 「末期脱糞捧梵天」— 無常・空への覚醒
「朦々然而三十年 淡々然而三十年 朦々淡々然而六十年 末期脱糞捧梵天


現代語訳: 朦朧と30年、淡々と30年。合計60年が過ぎ、人生の終わりに脱糞して梵天に捧げる。


人生の終わりに、自然な生理現象である排泄までもをありのままに受け入れ、それを「梵天に捧げる」と詠んだこの詩は、一休の徹底した無装飾の悟りを示しています。生が朦朧と、そして淡々と過ぎ去り、死に際しても一切の執着や偽りを捨て去る。そこには、無常を受け入れ、すべてが「空」であるという境地が表れています。


② 「借用申昨月作日…本来空にいまぞもとづく」— 四大の返却
「借用申昨月作日 返済申今月今日」


現代語訳: 借りていたものを返す、今月の今日。
(口語訳)「借り受けていた四大(地・水・火・風)のうち四つを返し、人間の本来の姿──空(くう)──だけがいまそこにある。」


私たちの身体を構成する地・水・火・風の四元素を「借り物」と捉え、それを返すことで、本来の「空」の境地へと立ち返る。これは、煩悩や感覚に縛られた「私」という存在を離れ、何ものにもとらわれない無碍(むげ)の真我へと還るという、禅の深い悟りの道を示しています。


③ 放下して雲水の如く — 煩悩を解き放つ生活
「…設藥防拘從今放下樂清虚做箇憨憨暮故 … 行香子 得得無修無惑無求放心閑無喜無憂逍遥 自在雲水閑遊趣空中玄玄中妙妙中幽…」


現代語訳(意訳): 「薬や拘束はしない。今から放下(すべてを手放す)し、清らかで純真な“憨憨(ぼうぼう)”の心で暮らそう。修行も迷いも求めもなく、喜びも憂いもなく。雲のように水のように、空の中を遊ぶように自由に生きよう。」


この詩句には、禅の核心的な思想である「放下」(すべてを手放す)という言葉が使われています。煩悩も知識も欲望も、あらゆる規範をも超え、まるで雲や水のように、何ものにもとらわれずに自由に生きる「雲水行脚」のような心境が理想とされています。これは、煩悩を捨てるのではなく、煩悩そのものから自由になるという、一休ならではの悟りの境地と言えるでしょう。


まとめ:一休が示した「悟り」の多様性
一休宗純の『狂雲集』は、私たちに「悟り」とは何か、そして人生とは何かを深く問いかけます。それは、決して一つの固定されたものではなく、個人の苦悩や喜び、俗世との関わりの中で、常に変化し、見出されていくものであると、一休は身をもって示してくれました。彼の詩は、私たち自身の心の奥底にある問いと向き合うための、示唆に富んだ道しるべとなるでしょう。

 

参考文献

一休 その破戒と風狂 栗田 勇 (祥伝社

https://amzn.to/4lHqTpO

一休宗純 狂雲集 柳田聖山 (中央公論新社

https://amzn.to/46rA2OI

 

今日の一句

菩提心 煩悩の中 潜めりと 悟りを知りて 心さやけし