一見すると似ている一遍と一休の「捨てる」という生き方ですが、その出発点は大きく異なります。一遍のきっかけが「絶望」であったのに対し、一休のそれは「失望」でした。「一遍上人と一休宗純、他力と自力~ 「捨てる」の果てに見た境地」に続く内容です。
1. 一遍上人:絶望の果てに見つけた「絶対的な救い」
【きっかけは何か?】
一遍の「捨てる」は、自らの力の限界に直面した絶望から始まりました。
* 記録: 彼の生涯を描いた絵巻物『一遍聖絵(いっぺんひじりえ)』によると、彼は熱心に仏道を修行するも、自らの力(自力)で悟りを開くことも、苦しむ人々を救済することもできないという壁にぶつかり、深く悩みます。
* 熊野での神託: 悩み抜いた一遍が熊野本宮大社に参籠した際、夢に熊野権現(阿弥陀如来の化身)が現れ、こう告げます。
「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」
(相手が信じようと信じまいと、清らかだろうと汚れていようと、関係なく念仏のお札を配りなさい)
* 「捨てる」の決意: このお告げは、一遍にとって衝撃でした。救う相手を選別しようとする自らの「知恵」や「分別」こそが、救済を妨げる間違いであったと悟ったのです。この瞬間、彼は自分の判断や計らい(自我)を完全に「捨てる」ことを決意します。
【何を得て、人々に何をもたらしたか?】
自我を捨てた一遍は、絶対的な安心感(安心立命)を得て、人々に無差別の救いをもたらしました。
* 得たもの: すべてを阿弥陀佛の力(他力)に委ねきることで、彼は一切の迷いや不安から解放されました。「南無阿弥陀仏」と書かれたお札そのものが救いであると確信し、執着のない「捨聖(すてひじり)」と呼ばれる境地に至ります。
* もたらしたもの: 一遍の「賦算(ふさん)」(お札配り)や「踊り念仏」は、元寇や飢饉で不安に満ちていた当時の民衆に爆発的に受け入れられました。善人か悪人か、身分が高いか低いかに関わらず、「誰もが、ただ念仏によって救われる」という彼のメッセージは、人々に生きる希望と熱狂的な一体感をもたらしたのです。
参考
一遍上人は、延応元年(1239年) に伊予国(現在の愛媛県)の豪族河野家の次男として生まれました。瀬戸内随一の水軍を擁する武士の家: 河野氏は、瀬戸内地方に大きな勢力を持つ武士団で、水軍を擁していました
彼が活躍したのは、鎌倉時代中期から後期(13世紀後半) です。この時代は、武士が台頭し、社会情勢が大きく変化する中で、様々な新しい仏教(鎌倉仏教)が人々の心を捉え始めた激動の時代でした。蒙古襲来など、不安が広がる世の中でした。
2. 一休宗純:偽善への失望から始まった「人間性の回復」
【きっかけは何か?】
一休の「捨てる」は、悟りを権威の道具にする、形式化した禅宗界への深い失望から始まりました。また、死をつねに自覚して、いかに生きるべきか人々に問いました。
* 記録: 彼の漢詩集『狂雲集(きょううんしゅう)』や伝記『一休年譜』には、その反骨精神が示されています。彼は幼少から厳しい修行を積んだエリートでしたが、悟りを開いた禅僧たちが、その悟りを権威として振りかざし、世俗的な名声や富を求める姿に嫌悪感を抱きます。
* 権威の否定: 師から悟りの証明書である「印可状」を与えられた際も、そんなものは無用だと破り捨てようとしたとされます。師の死後、彼は名高い大徳寺の住職の座を約束されながらも、権威化された寺院を飛び出し、市井へと姿を消します。これが、彼が既存の価値観や権威を「捨てる」生き方の始まりでした。
* 「捨てる」の実践: 彼にとって「捨てる」とは、偽善を捨てることでした。飲酒・肉食・女色といった戒律をあえて破ることで、「悟ったふり」をしている僧侶たちの欺瞞を暴き、人間本来の姿を肯定しようとしたのです。
【何を得て、人々に何をもたらしたか?】
建前を捨てた一休は、完全な精神的自由(風狂)を得て、人々に真実を生きる勇気をもたらしました。
* 得たもの: 戒律や常識、権威から自由になることで、彼は何ものにも縛られない「風狂」の境地を得ました。悟りを高尚なものとせず、人間の欲望や弱さのただ中にこそ真実があると考え、ありのままの自分を生き抜きました。
* もたらしたもの: 一休の生き様は、人々に「権威を疑い、自分の心の声に従え」という強烈なメッセージを伝えました。難しい教えを説くのではなく、とんち話や詩を通して、偽善を笑い飛ばし、建前だらけの世の中に風穴を開けたのです。彼の存在は、形骸化した仏教へのカウンターカルチャーとして、多くの民衆の心を掴みました。
参考
一休さんこと 一休宗純(いっきゅうそうじゅん) は、応永元年(1394年) に京都で生まれました。後小松天皇の皇子(落胤) とされる説が有力です。母は藤原氏の出自で、南朝の高官の血筋であったと言われています。晩年住んでいた酬恩庵(一休寺)の境内にある一休宗純の墓所は、宮内庁によって「御陵墓」として管理されています。門扉には、菊の御門があり、中には入れません。
彼が活躍したのは、室町時代中期から後期(15世紀) です。この時代は、将軍家である足利幕府の権威が揺らぎ、応仁の乱(1467年~1477年)のような大規模な内乱が起こり、社会が混乱の極みにあった時期です。下剋上が常態化し、旧来の秩序が崩壊していく中で、人々の価値観も大きく揺れ動いていました。
今日の一句
捨ててこそ 見ゆる景色に 心澄み 執着離れて 風のごとくに
参考文献