はじめに:あなたの思う「善人」は、本当に救われるのか?
私たちは、道徳的で、善良な人間であろうと努力します。社会的な評価を気にし、自らの良心に従い、「善人」として生きることに価値を見出しています。しかし、日本の仏教思想、特に鎌倉時代の親鸞と室町時代の一休宗純の教えは、この「善人であろうとする心」そのものに、鋭い問いを投げかけます。
彼らの思想を深く探求すると、自己救済への道は、「善人」を目指すこととは全く逆の方向、すなわち**「自分は救われようのない悪人である」と徹底的に自覚すること**から始まる、という驚くべき結論が見えてきます。
この記事は、特定の信仰を勧めるものではありません。親鸞と一休という二人の思想家が、なぜ「悪人の自覚」をそれほどまでに重視したのか。彼らの言葉を手がかりに、その論理を説明的に解き明かし、現代に生きる私たちがそこから何を学べるのかを探求する試みです。
1. 親鸞の「悪人正機」に学ぶ ー なぜ善人では救われないのか
浄土真宗の宗祖である親鸞の思想の核心に、「悪人正機(あくにんしょうき)」という言葉があります。これは、親鸞の弟子である唯円が記した『歎異抄(たんにしょう)』の有名な一節に集約されています。
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
(現代語訳:善人でさえ往生することができる。ましてや悪人が往生できないはずがあろうか)
この言葉は、「悪人こそが、阿弥陀仏の救いの本来の目当てである」という意味です。これを表面的に捉えると、「悪いことをした方が救われるのか?」という道徳的な混乱を招きかねません。しかし、親鸞がここで言う「善人」と「悪人」の定義は、私たちが通常考えるものとは全く異なります。
親鸞が言う「善人」とは、
自らの力(自力)で善い行いを積み、修行を重ねることで、悟りを開き、救われる資格を得られると信じている人のことです。彼らは自分の努力や道徳性に自信を持っているため、「自分の力で何とかなる」という一種の傲慢さを抱えています。親鸞に言わせれば、この**「自力で何とかしようとする心」こそが、阿弥陀仏の絶対的な救い(他力)を信じ、受け入れる上での最大の障壁**となるのです。自分の力に頼っている限り、仏の力に100%身を委ねることはできません。
善人であろうとする欲が、いろんな悩みを生み出します。阿弥陀仏の救いを受け入れるのは、空っぽの方がすんなり入ります。
一方で、親鸞が言う「悪人」とは、
あらゆる煩悩にまみれ、罪深く、自分の力では到底救われることなどできない、どうしようもない存在であると痛切に自覚している人のことです。彼らは、自分の無力さと罪深さを知っているからこそ、自力で救われようという考えを完全に捨て去っています。だからこそ、阿弥陀仏が差し伸べる無条件の救い(慈悲)に、ただすがるしか道がない。そのように自己の限界を完全に見つめた者こそが、他力の救いを全身で受け止めることができるのです。
したがって、親鸞の思想に立てば、次のように考えられます。
自己救済のプロセスは、「自分は善い人間だ」という自己評価を築き上げることではありません。むしろ、その逆です。自分の心がいかに嫉妬、怠惰、欺瞞といった煩悩に汚れているかを直視し、「自分は自力ではどうにもならない悪人である」という事実を徹底的に認めること。そしてその事実を愛することが大事です。この痛みを伴う自己認識こそが、人間のはからいを超えた大いなる救い(他力)を受け入れるための、唯一の入り口となるのです。これは自己卑下ではなく、自己という存在を限界まで正確に分析した、冷静な知性の働きと言えるでしょう。
2. 一休の「破戒」に学ぶ ー なぜ聖人を演じてはいけないのか
室町時代の禅僧、一休宗純は、その型破りな言動で知られています。飲酒、肉食、女犯といった、僧侶としてあるまじき「破戒」的な生き方を貫きました。しかし、これは単なる享楽主義や反抗ではありませんでした。一休の行動の根底には、人間性の真実を見つめる、極めて厳しい眼差しがあります。
「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」
(現代語訳:正月の門松は、あの世への旅の一里塚のようなものだ。めでたいようでもあり、実は死に一歩近づいただけだ)
このような歌に見られるように、一休は世俗的な価値観や建前を嫌い、物事の本質を突きつけます。彼が最も批判したのは、悟りを開いたかのように振る舞い、清廉潔白を装う権威的な僧侶たちの偽善でした。
一休にとって、人間とは、欲望や弱さを抱えた生々しい存在です。その人間的な現実から目をそらし、悟った「聖人」を演じることは、自分自身と他者に対する最大の欺瞞でした。彼が敢えて破戒的な行動をとったのは、**「仏道とは、人間離れした聖人になることではない。煩悩渦巻く、この生身の人間として生きることの中にこそ真実がある」**というメッセージを、その身をもって示すためでした。
したがって、一休の生き方から、私たちは次のように考えることができます。
自己救済とは、自分の中の欲望や弱さ(=悪)を根絶やしにしようとする、不可能な試みではありません。むしろ、それら全てを「それこそが人間なのだ」と引き受け、肯定することです。清らかな善人を演じる仮面を脱ぎ捨て、嫉妬もすれば、怠けもする、ありのままの自分(=悪人)として生きる。その自己欺瞞からの解放にこそ、真の自由があるのだと一休は示唆しています。建前を捨て、本音で生きる勇気を持つこと。それが、一休が指し示した自己救済の道筋なのです。
まとめ:二人の思想が照らす、一つの道
親鸞と一休。生きた時代も宗派も異なりますが、彼らの思想は驚くほど似通った地点から出発します。
* 親鸞は、「善人」という自力の驕りを捨てることで、他力による救いの道を示しました。
* 一休は、「聖人」という偽善の仮面を剥ぎ取ることで、人間性の全体を肯定する自由を示しました。
両者に共通するのは、「自分は立派な人間だ」という思い込みとそれを日々維持しようとする行いこそが、私たちを最も不自由にし、救いから遠ざけるという鋭い洞察です。
「悪人」であると自覚することは、自己を罰するためのものではありません。それは、自分の現在地を偽りなく認めるという、最も誠実で知的な態度です。この徹底した自己認識があって初めて、私たちは自分のはからいを超えた大きな力に身を委ねるか(親鸞)、あるいはありのままの不完全な自分を抱きしめて生きていくか(一休)、それぞれの形で偽りの自己から解放されるのです。
親鸞と一休の言葉は、現代を生きる私たちの心に深く響きます。「良い人」であろうとすることに疲れたとき、彼らの思想は、そのプレッシャーから降りて、もっと正直に、もっと自由に生きる道があることを教えてくれるでしょう。
今日の一句
悪人が自分であると知る時に ストレス消えて笑顔が浮かぶ