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日々の雑感

「南無阿弥陀仏」に込められた深意──名号・体・義・行の三重の構造

 

南無阿弥陀仏の「体・義・行」について

南無阿弥陀仏という名号は、仏から与えられた「体」としての真理であり、それを称える「行」としての実践でもある。このように、名号は 体=仏の側の完成、行=衆生の側の応答という二面を持ち、両者は分けられないが、意味づけは異なるというのが、浄土真宗の教義的な特徴です。

🔶 はじめに

浄土真宗では「南無阿弥陀仏」という名号が、単なる念仏の言葉ではなく、如来の救いの完成形として尊ばれています。

この名号は、仏の本願そのものであり、「仏教の体(本質)」であり、同時に「行(ぎょう)=修行」であり、またそこに込められた「義(ぎ)=意味・はたらき」を持つものとされます。

本記事では、善導大師の重要な言葉を手がかりに、「名号」「体」「義」「行」の関係をやさしく解説していきます。

🔷 善導大師の言葉に学ぶ

「『南無』と言うは、すなわちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。『阿弥陀仏』と言うは、すなわちこれその行なり。」

この言葉には、「南無阿弥陀仏」という名号の中に含まれる意味が丁寧に分解されています。

▸ 「南無」= 義(ぎ)

「南無」とは「帰命(きみょう)」、すなわち命をささげる、信じて身をゆだねるという意味。

「南無」には、「発願回向(ほつがんえこう)の義」という意味も含まれています。これは、阿弥陀仏が私たちを「救おう」と誓われた願い(発願)と、その願いを私たちに差し向けてくださる働き(回向)という、如来の慈悲のこころ(義)そのものを示しています。

私たちが「南無」と仏に頼む心も、元をたどれば阿弥陀仏のお力によって生じたものです。

しかし、南無阿弥陀仏と称え、仏に頼むこの心さえもが阿弥陀仏からの「回向」の賜物(たまもの)であると気づき、感謝できるようになるまでには時間がかかるかもしれません。その間、私たちの中では、法蔵菩薩の修行が今もなお続いていると味わうことができるでしょう。

▸ 「阿弥陀仏」= 行(ぎょう)

阿弥陀仏」は、如来の行(ぎょう)そのもの。
念仏を称えることがすでに仏の救いのはたらきと一体であり、これが浄土真宗における正行(しょうぎょう)です。

🔶 では、「体」とは何か?

ここで言う「南無阿弥陀仏」という名号全体は、仏教の本質=体(たい)とされます。

親鸞聖人は、仏の名号をもって経の体とするなりと言い、すべての経典の核心はこの名号にあるとしました。つまり、名号は如来の救いの完成されたすがた=体なのです。

🔷 名号・体・義・行の三重構造

ここまでの内容を整理すると、次のような三重構造が浮かび上がってきます:

体(たい)
仏法の本質・実体
南無阿弥陀仏」そのもの
義(ぎ)
その言葉に込められた意味・働き
「南無」は帰命・発願回向の義
行(ぎょう)
称えることで成立する実践
阿弥陀仏」は如来の行そのもの

このように、「名号」は三つの重層構造を持つ深い教義的装置であると理解できます。

✅ まとめ

南無阿弥陀仏」は、仏の救いの“体(本質)”そのものであると同時に、その中の「南無」は帰命・発願回向という“義(意味・内容)”を表し、「阿弥陀仏」は救いの実践=“行(ぎょう)”である。

善導大師や親鸞聖人の言葉を手がかりに、「名号」という一語の中にどれほど深いはたらきと意義が込められているかを、あらためて噛みしめてみてください。

したがって:

  • 「名号」=体
  • その「意味」や「はたらき」=義
  • その「実践」=行

という三位一体的な構造を成しています。

www.namuamidabu.com

今日の一句

名号に 仏はなりて 一心に
助けを求む 衆生救う