仏教の教えには様々な深さがありますが、中でも私たち凡夫にとって特に心強いのが、阿弥陀仏の救いです。阿弥陀経は、その阿弥陀仏の極楽浄土がいかに素晴らしい場所であるかを説くお経ですが、この中に「悪人救済」という、一見すると意外に思える思想が深く根付いているのをご存知でしょうか。
「誰でも救われる」という阿弥陀仏の願い
阿弥陀経には、このような一節があります。
「舍利弗(しゃりほつ)、若し(もし)人有りて已に(すでに)発願(ほつがん)し、今発願し、当に(まさに)発願して阿弥陀仏国(あみだぶっこく)に生れんと欲はん(ほっせん)者は、是(こ)の諸(もろもろ)の人等(ひとら)、皆阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を退転せざることを得て、彼(か)の国土に於て(おいて)、若は(あるいは)已に生れ、若は今生れ、若は当に生れん」
これは、「過去に、今現在、そして未来において、阿弥陀仏の極楽浄土に生まれたいと願うすべての人は、この上ない覚りから決して後戻りすることなく、極楽浄土に生まれ、すでに生まれ、あるいはこれから生まれるだろう」という意味です。
ここで大切なのは、「人有りて(人がいて)」という言葉が使われていることです。これは、性別や年齢、賢さや愚かさ、そして過去の行いの善悪に関わらず、「すべての人」が阿弥陀仏の救いの対象であることを明確に示しています。阿弥陀仏の慈悲は、分け隔てなく、私たち一人ひとりに向けられているのです。
「善男子・善女人」の真の意味
しかし、その直後には「是の故に舎利弗、諸の善男子・善女人、若し信ずること有らん者は、応に発願して、彼の国土に生るべし。」という言葉が続きます。
「善男子・善女人」と聞くと、「やはり良い行いをした人だけが救われるのか?」と疑問に思うかもしれません。しかし、ここでの「善」は、私たちが一般的に考える道徳的な「善行」を積んだ人という意味合いだけではありません。
仏教において、この「善男子・善女人」という言葉は、仏の教えを聞き、それを素直に受け入れ、信じようとする「心構え」を持っている人を指すことが多いです。つまり、たとえ過去にどれほど罪を重ねた人であっても、阿弥陀仏の救いを信じ、極楽浄土への往生を願う心があれば、その人は「善男子・善女人」として救われる対象となる、と解釈されるのです。
悪人こそが救われる?「悪人正機」の思想
さらに深くこの思想を追求したのが、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人です。親鸞聖人は『歎異抄』の中で、「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という有名な言葉を残されました。
これは、「良い行いをした人ですら往生できるのだから、ましてや自らの力では善行を積むことができず、煩悩にまみれて罪を重ねてしまう悪人こそが、阿弥陀仏の深い慈悲によって救われる主役である」という、**「悪人正機(あくにんしょうき)」**の思想を表しています。
私たちは誰もが、自分ではどうしようもない煩悩を抱え、完璧な善人ではいられません。むしろ、自分の弱さや愚かさを自覚し、自力ではどうにもならないと知る者こそが、阿弥陀仏の他力(他からの力)による救いを求める「機縁」を持つとされているのです。
まとめ
阿弥陀経に直接「悪人救済」という言葉が書かれているわけではありませんが、その中に込められた阿弥陀仏の無限の慈悲と、あらゆる衆生を漏らさず救うという本願は、「悪人をも包み込む救済」の思想へと繋がっています。
「善男子・善女人」とは、決して道徳的な完全さを求めるものではなく、阿弥陀仏の救いを信じ、心を開く姿勢を持つすべての人を指すのです。
私たち人間は、誰もが不完全な存在です。
しかし、そんな私たちだからこそ、阿弥陀仏は「必ず救う」と誓ってくださっています。この阿弥陀経の教えに触れることは、私たち自身の存在を肯定し、未来への希望を見出す光となるのではないでしょうか。梶山雄一氏によると『仏説無量清浄平等覚経』にも同様の記述があるそうです。
今日の一句
名号は仏そのもの 一心に 南無阿弥陀仏 助けを求む