二河白道(にがびゃくどう)の譬(たと)えは、私たちがどのようにして阿弥陀仏(あみだぶつ)の救(すく)いを得(え)て、極楽浄土(ごくらくじょうど)へ往生(おうじょう)するのかを象徴的に表しています。この譬え話を通(とお)して、回因向果(えいんこうが)の回向心(えこうしん)(自力(じりき))から回思向道(えしこうどう)の回向心(えこうしん)(他力(たりき))への転換の重要性を理解することができます。
二河白道の譬えの概要
二河白道図は、現世を生きる人々が直面する苦悩と、そこから救われる道筋を描いています。
* 二河: 人間の持つ貪欲(とんよく)(水の河)と瞋恚(しんに)(火の河)という、避けて通れない二つの煩悩を象徴しています。
* 白道: 二つの河の間にある、わずか四、五寸の細い道。これは、煩悩に満ちた世界にいながらも、阿弥陀仏を信じる清浄な心、すなわち「念仏」を意味します。
回因向果の回向心(自力)の限界
二河白道の譬えにおいて、もし私たちが回因向果の回向心、つまり自らの力で善行(因)を積み、その功徳によって救われよう(果)とするならば、二河、すなわち煩悩の激流に押し流されてしまうでしょう。自力では、貪欲や怒りの炎を消し止めることはできず、清らかな心を持ち続けることも困難です。その結果、その場から動けなくなり、前にも後ろにも行けなくなります。回は、因を果に"まわす"というふうな意味です。
回思向道の回向心(他力)への転換の意義
ここで重要なのが、回思向道の回向心、つまり阿弥陀仏の慈悲 (因)に身を委ねる心への転換です。自らの力ではどうすることもできない煩悩の海の中で、私たちは阿弥陀仏の救い (道)を信じ、一心に念仏を唱えます。この念仏こそが、二河の間に現れた細い白道であり、私たちを安全に極楽浄土へと導く唯一の道なのです。東から「行け」の声が聞こえ、西から「来い」の声が聞こえるようになるとのことです。
東からの「行け」の声は、**釈迦如来(しゃかにょらい)**を指します。
釈迦はこの娑婆世界に現れ、私たちに阿弥陀仏の本願を説き、念仏の教えに「向かえ」と勧める存在です。言わば「教化(きょうけ)」の仏です。
西からの「来い」の声は、**阿弥陀如来(あみだにょらい)**を指します。
阿弥陀は西方極楽浄土において「南無阿弥陀仏」と念仏する者を迎え入れると誓っており、信じ念仏する者に対して「我が国に来よ」と招く存在です。言わば「摂取(せっしゅ)」の仏です。
「回思向道(えしこうどう)」の「道」とは、自力で煩悩を超えることができない凡夫(ぼんぶ)が、他力に身を委ねることで往くことができる道――阿弥陀仏の智慧と慈悲に基づく「浄土往生の道」を意味します。
「回思(えし)」= 阿弥陀仏の慈悲に思いを向けること(因への思慕)
「向道(こうどう)」= 阿弥陀仏が示した往生への道(浄土へ至る救いの道)に心を向けること
* 自力から他力へ: 自分の力で何とかしようとするのではなく、阿弥陀仏の無限の慈悲にすべてを委ねる。
* 念仏: 阿弥陀仏への感謝と信頼の念を込めて念仏を唱えることが、救いへの道を開く。
* 煩悩からの解放: 阿弥陀仏の力によって、私たちは煩悩に打ち勝ち、真の安らぎを得ることができる。
まとめ
二河白道の譬えは、自力では救われない私たちの姿と、他力である阿弥陀仏の救いの大きさを鮮やかに示しています。回因向果の回向心から回思向道の回向心への転換は、自分の力に頼る生き方から、阿弥陀仏の慈悲に身を委ねる生き方への転換を意味します。この転換を通して、私たちは真の救いと安らぎを得ることができるのです。
今日の一句
向こう岸自力で渡るすべはなし 南無阿弥陀仏他力にまかせ