月影

日々の雑感

「義」と「体」とは何か?──親鸞が説く名号と本願の意味

親鸞の世界という本を読んでると、義と体について激論がかわされていました。浄土真宗の曽我量深師、 金子大榮師、哲学者の西谷啓治先生、そして禅宗鈴木大拙師がそれぞれの考え方をぶつけ合っていました。そこで、親鸞聖人の言葉や浄土教の枠組みをもとに、「義」と「体」の意味、そしてそれが「如来の本願」「名号(南無阿弥陀仏)」「浄土」「娑婆」とどう関係するのかを、調べてみました。

 

「義」とは何か?

「義」とは、仏の教えの根本的な意味・目的・精神のことを指します。親鸞聖人の『教行信証』にある次の言葉に、定義されています。

如来の本願を説きて、経の宗致とす。すなわち、仏の名号をもって、経の体とするなり」

 

ここでいう「宗致」とは、その経典の主旨=「義」にあたります。つまり、阿弥陀仏の本願(すべての人々を救いたいという願い)が「義」であり、それが教えの核心にあるということです。そして動くもの。

 

「体」とは何か?

「体」とは、その「義(意味)」が具体的・実在的な形を取って、私たちに働きかけるものを指します。つまり、「義」が教えの心だとすれば、「体」はそれを形にしたもの・実行する力です。そして動かないもの。

 上に紹介しているように親鸞聖人は「仏の名号をもって経の体とする」と言いました。つまり、南無阿弥陀仏(名号)は、阿弥陀仏の本願が形となって私たちに届いた“実体”=「体」なのです。

 

浄土・娑婆・名号の関係性

仏教教義の中心的テーマである「救い」において、それぞれの要素が「義」と「体」のどちらに属するのかを見てみましょう。


本願
阿弥陀仏の「すべての人を救いたい」という誓願で、「義」であり、教えの中心的意味であり、目的。


名号
南無阿弥陀仏」という称名で、これが「体」であり、本願の心が具体的な言葉として私たちに働く“実体”。


浄土
阿弥陀仏の救済が完成する世界で、「義」であり、救いの目的地であり、到達点。意味としての「義」。


娑婆(しゃば)
煩悩に満ちた現世(私たちが生きる世界)で、「義」であり、救いが必要とされる対象として、教えの意味を成す場。

 

「浄土が体ではない」とは?

「浄土」は本願によって目指される救いの完成された姿です。たしかに「実在する世界」ではありますが、それは未来に往生する場所であり、今この場で私たちに直接はたらきかけるものではありません。

 

そのため、浄土は「義」にはなっても、「体」にはなりません。「体」とは、私たちに今はたらきかけ、導いてくれるもの──つまり「名号(南無阿弥陀仏)」がその役割を担っています。

 

「娑婆も体では?」という問いについて

娑婆は私たちが今生きている「現実の世界」です。しかし、それが現実に存在しているからといって「体」とは限りません。

 体とは、教えが私たちに対して直接的に救いの働きをもって現れるものであり、娑婆はむしろその救いを必要とする場所=対象にすぎません。したがって、娑婆も「体」ではなく「義」、すなわち教義の意味を成立させるための前提・舞台として位置づけられます。

 

まとめ:浄土真宗における「義」と「体」

浄土真宗では、「義」は仏の教えの中心的意味、「体」はその教えが私たちに具体的に現れている実体を指します。

義=意味・目的(救いの意図)→ 本願、浄土、娑婆、往相、還相など。
体=実体・はたらき(救いの手段)→ 名号(南無阿弥陀仏)のみ

 

親鸞聖人は、「仏の本願=義」によって「名号=体」が示され、私たちがその名を称えることで、救いの道が開かれていると教えます。南無阿弥陀仏という名号以外は義であると考えていいようです。これを名号独体というそうです。また、「義というものは無限に展開するものです。体というものは固定するものです」(曽我量深師)という特徴もあります。

 

終わりに

浄土真宗の教義は、私たちが今この娑婆世界で苦悩しながらも、「南無阿弥陀仏」という名号によって救いに導かれているという確信に立っています。浄土はその目指す先であり、娑婆はその舞台。私たちを動かし、導く“真の実体”が名号である南無阿弥陀仏なのです。

 

文献

親鸞の世界 鈴木大拙、金子大榮、西谷啓治、、曽我量深 著 アマゾン

Kindle版

 

今日の一句

本願は 願いで義なり 体こそは 名号となる南無阿弥陀仏