前回紹介しました親鸞の世界に出てきた以下の言葉を考えてみます。
「如来の行が衆生の行となるということである。南無阿弥陀仏という、もともと如来の行であるものが衆生の行になる」
この言葉について調べてみました。「南無阿弥陀仏」という称名が如来の行である、という考え方は、私にとって新しい発見でした。この言葉は、浄土真宗における「他力の行(ぎょう)」の核心に関わるものです。
◆ この言葉の意味を整理すると:
**南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)**という称名は、もともとは阿弥陀如来(=如来)の行(=本願による救いの働き)であるが、それがそのまま私たち衆生の行(=往生の因)となる、という意味です。
◆ 一歩ずつわかりやすく解説します:
① 「如来の行」とは?
阿弥陀如来が、かつて法蔵菩薩として「すべての衆生を救う」と誓った**本願(ほんがん)**を実現するために行った修行と功徳のことです。その修行の結果、「南無阿弥陀仏」という名号が生まれました。つまり、**「南無阿弥陀仏」は、如来が私たちを救うために完成させた行(ぎょう)**なのです。
② 「衆生の行になる」とは?
私たち衆生は、煩悩深く、自分の力(=自力)だけでは悟りを開くことはできません。しかし、「南無阿弥陀仏」と称えることによって、如来の行そのものが、自分の行(=往生の因)として働いてくれるのです。つまり、南無阿弥陀仏と称えることは、自分の修行ではなく、阿弥陀仏の本願力によって回向された如来の行を、そのまま自分の行としていただくことだと理解できます。
◆ たとえ話でイメージすると…
川を渡らねばならないのに、自分では泳げない人(=私たち)がいる。そこに橋をかけてくれた人(=阿弥陀如来)がいて、「この橋を渡ればいい」と教えてくれた。→ この橋こそが「南無阿弥陀仏」。橋をかけるという努力(=行)は如来のものであり、私はただ渡るだけで救われる。だから、「如来の行」が「衆生の行」になるのです。
◆ 親鸞聖人の核心思想
親鸞はこう考えました:
「称名(南無阿弥陀仏)」は、私が自力で修行することではなく、阿弥陀如来の本願によって私に与えられた救いのはたらきそのものである。つまり、南無阿弥陀仏と称えることそのものが、如来の行のはたらきにすでに乗っている状態なのです。つまり、本願力に乗じていることになります。
次のような親鸞聖人の和讃があります。
煩悩具足(ぐそく)と信知(しんち)して 本願力に乗(じょう)ずれば すなはち穢身(えしん)すてはてて 法性常楽証(ほっしょうじょうらくしょう)せしむ
現代語訳:
自分が煩悩に満ちた存在であると信じて、本願(阿弥陀仏の誓い)の力に身をゆだねれば、やがてこの汚れた身を捨てて、仏の悟り(法性の世界の常楽)を実現させていただける。
◆ まとめ
南無阿弥陀仏は、自分の努力による修行ではなく、阿弥陀如来が完成された救いの行。それをそのまま受け取って称えることで、**私自身の往生の因(=衆生の行)**となる。このように、「如来の行=衆生の行」というのが、浄土真宗における「他力」の教えの本質なのです。
今日の一句
願ゆえに 南無阿弥陀仏 聞こえてく 如来の行は ひとの行なり