空海の教えとそれを表現している和歌を紹介します。まず、真言宗の真言とはなんでしょうか。
大日如来の真言は、「オン アビラウンケン バザラダト バン」と唱えます。聖観世音菩薩さまのご真言は「オンアロリキャソワカ」ですが、これは「観音さま、ただただあなたを信じます」という意味です。信心が大事だということは浄土真宗と共通しています。真言宗は、大日如来が、宇宙の森羅万象全ての根源であると教えています。
次に空海の和歌を2首紹介します
春風に波より池の薄氷(うすらい) とくればもとの水とこそなれ
* 現代語訳:
春の風が吹き、池の表面を覆っていた薄い氷が波によって溶けてしまえば、元のただの水に戻るのだ。
* 解釈 (煩悩即菩提の教え):
この歌は、仏教の「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」の教えを表現しています。池の薄氷を「煩悩」に、そしてそれが溶けて現れる元の水を「菩提(悟り)」にたとえています。
春風というきっかけ(仏の教えや修行など)によって、私たちを覆っている煩悩という氷が溶ければ、本来持っている仏性(仏としての性質、悟りの可能性)が現れるのだ、ということを示唆しています。つまり、煩悩と悟りは別々のものではなく、煩悩があるからこそ悟りがあるのであり、煩悩を滅却するのではなく、煩悩の本質を見極めることで悟りに至るという深遠な教えを、自然の情景に託して詠んでいます。 真言宗は、浄土真宗と同じように、煩悩と菩提心は重要なテーマです。
{親鸞はこれに似た和讃を読んでいます。
罪障功徳の体となる こおりとみずのごとくに.
て こおりおおきにみずおおし さわりおおき.
に徳おおし
現代語訳:
罪深い存在(罪障)が、そのまま仏の功徳をい.
ただく身となるのです。それは丁度、氷と水の
関係のようなものです。氷がたくさんあればあ
るほど、それが溶けた時にはたくさんの水にな
るように、罪や煩悩(さわり)が深ければ深い
ほど、阿弥陀仏の救いによって得られる功徳も
また広大になるのです。}
さとりとはさとらでさとるさとりなり さとるさとりは夢のさとりか
* 現代語訳:
本当の悟りとは、ことさらに「悟ろう」と意識しないで自然と悟る境地のことである。「悟ったぞ」と意識するような悟りは、まだ夢の中の悟りのようなもので、真実の悟りではないのかもしれない。
* 解釈:
この歌は、悟りに対する執着や、「悟った」という意識そのものを戒める内容です。真の悟りとは、作為的・意識的なものではなく、無心のうちに自然と訪れるものであると説いています。
「悟ろう、悟ろう」と力んで得たような悟りは、まだ自己意識や分別に囚われた状態であり、それはまるで夢を見ているような、一時的で表面的な悟りに過ぎないのではないか、という問いかけが込められています。悟りという概念にすらとらわれない、あるがままの境地こそが重要であるという、空海の深い洞察がうかがえます。
一休さんが高野山に登った時の和歌
弘法大師活仏(いきほとけ) 死ねば野はらの土となる
* 現代語訳:
(高野山で神聖視されている)弘法大師は生き仏として崇められているが、亡くなれば結局は野原の土くれとなるのだ。
* 解釈:
この歌は、一休禅師の型破りで本質を突く姿勢が表れています。当時、絶対的な存在として神格化されていた弘法大師(空海)でさえも、死を迎えれば他の人間と同じように自然に還る土くれに過ぎない、という非常に大胆な表現を用いています。
これは、偶像崇拝や権威主義に対する批判であり、どれほど偉大な人物であっても、生身の人間としての限界や無常からは逃れられないという仏教的な真理を、痛烈に指摘しています。また、肩書きや名声にとらわれず、人間としての本質を見つめるべきであるという、一休らしい禅的な視点も感じられます。高野山の聖域において、その創始者である空海に対してこのような歌を詠むこと自体が、一休の反骨精神と自由な精神を象徴していると言えるでしょう。また、生仏の空海も死ねば、人間であるから他の人のように土になるとの自然の現象で、当たり前のことを歌っているとも受け取れます。
今日の一句
菩提心煩悩溶けて現るる 氷と水の徳はひとしき