歌人として名高い西行は、真言宗の寺にたびたび滞在したと伝えられています。その真言宗を開いた空海(774年~835年)は、「言葉そのものに真理、すなわち仏の働きが宿る」と考え、言葉を非常に重視しました。
この思想は、「南無阿弥陀仏」という言葉に絶対の救いを見出した親鸞聖人(浄土真宗)の思想と、深く響き合うものがあります。
今回は、空海の教えを手がかりに、日本仏教を代表する二人の巨匠の思想を読み解いていきます。
【1. 空海の思想 ― 言葉は仏の働きそのもの】
空海は、「私たちの話す声や書く文字の一つひとつが、宇宙の真理そのものである」という壮大な思想を『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』などで説きました。その根幹にあるのが「三密(さんみつ)」の教えです。
◆仏と一体になるための三つの行い「三密」
空海は、仏には三つの大切な働き(密)があり、私たちもそれを実践することで仏と一体になれると考えました。
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身密(しんみつ):身体の行い 仏のように、規律正しく行動する。
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口密(くみつ):言葉の行い 仏のように、真実と思いやりのある言葉を語る。
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意密(いみつ):心の行い 仏のように、清らかで慈愛に満ちた心を持つ。
この三つを整える修行を通して、人は仏と感応し、一体化できると説いたのです。これは、蓮如上人が「阿弥陀仏がすべてご存知と心得て、身をつつしむべきである」と説かれたように、宗派を超えて私たちの生き方にも通じる普遍的な教えと言えるでしょう。
【2. 声字実相義 ― 声や文字は真理の現れ】
この「三密」の中でも、空海が特に重視したのが言葉(口密)です。
声字(しょうじ)は実相(じっそう)をあらわす (私たちの発する声や用いる文字は、ありのままの真実を現している)
『声字実相義』より
空海にとって、声や文字は単なる記号ではありませんでした。それ自体が仏であり、真理を具現化するものだったのです。 特に、サンスクリット語の真言を声に出して唱える行為は、仏の活動そのものであり、それ自体が悟りへの道でした。
真言とは、諸仏の密号なり。すなわち仏の名、仏の徳、仏の身を具す (真言とは、仏そのものである。その名には仏の徳と身体のすべてが備わっている)
『即身成仏義』より
まさに、言葉は仏の「姿」そのものだったのです。
【3. 親鸞の名号 ― 阿弥陀仏そのものである言葉】
一方、親鸞聖人もまた、「南無阿弥陀仏」という言葉(名号)に絶対的な価値を見出しました。
南無阿弥陀仏は、すなわちこれ、かの如来の御こころなり (「南無阿弥陀仏」という名号は、そのまま阿弥陀如来の心そのものである)
つまり、親鸞にとっても「名号=阿弥陀仏そのもの」であり、救いの実体でした。この点で、空海の「言葉=仏の働き」という思想と構造的に非常に似ています。
しかし、両者には決定的な違いがあります。
言葉を「仏の真理そのもの」と見る点では共通しながら、その言葉と人間との関わり方に、**「自力」と「他力」**という明確な立場の違いが現れているのです。
真言宗の総本山である京都・東寺の御詠歌は、この二人の思想の響き合いを象徴しているかのようです。
空海の 心の内に 咲く花は 弥陀より外に 知る人ぞなき
この歌は、密教の巨匠である空海の深い境地を理解できるのは、絶対者である阿弥陀仏だけだ、と詠んでいます。
【結論】
空海も親鸞も、「言葉そのものに真理が宿る」という、共通の深い言語観を持っていました。
しかし、その言葉に至る道筋が、「人が修行によって体得するのか(自力)」、それとも**「仏の救いとしてすでに差し出されているのか(他力)」**という点において、両者の思想はそれぞれの道を歩むことになります。この違いこそ、日本仏教の豊かさと奥深さを示していると言えるでしょう。
今日の一句
この心 言葉つむぎて 産まれいづ 仏の誓い 世界を照らす