「口を念仏に寄附しなさいや。自分のものじゃと思うから、地獄行の種ばかりつくる。」 七里恒順和上
この文章を読んだ時、言葉はやさしいのですが意味が分かりにくいと感じました。そこで、この言葉について調べてみました。
「口を念仏に寄附しなさいや。」
* 口 (くち): 文字通り、話したり食べたりする器官としての口を指しますが、ここでは「話すこと」「言葉を発する機能」全体を象徴しています。
* 念仏 (ねんぶつ): 「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と阿弥陀仏の名を称えることです。浄土宗や浄土真宗では、阿弥陀仏の本願を信じ、念仏を称えることで救われ、極楽浄土に往生できるとされています。
* 寄附 (きふ): 本来は金品などを公共の事業や社寺などに提供することですが、ここでは「捧げる」「委ねる」「〜のために使う」という意味合いで使われています。自分の所有物であるという考えを手放し、仏(ここでは阿弥陀仏やその教えである念仏)に完全に任せる、というニュアンスです。
* しなさいや: 「しなさい」という命令形に、親しみや念押し、あるいは方言的な響き(関西弁など)を加える「や」が付いています。「〜しなさいよ」「〜するんだよ」といった感じです。
→ この部分は、「あなたの口(話す機能)を、自分の勝手な目的のためではなく、ひたすら念仏を称えるために使いなさい。口を阿弥陀仏に捧げなさい」という意味になります。
「自分のものじゃと思うから、地獄行の種ばかりつくる。」
* 自分のものじゃと思うから: 「じゃ」は「だ」のくだけた言い方。「その口が自分自身の所有物だ、自分の思い通りに使っていいものだと考えているから」という意味です。これは仏教で言う「我執(がしゅう)」、つまり自分や自分のものへの執着を表しています。
* 地獄行の種 (じごくいきのたね): 地獄へ行く原因となるもの。仏教では、私たちの行い(業、カルマ)が未来の結果(行くべき世界など)を生み出すと考えます。悪い行いは、地獄のような苦しみの世界へ行く「種」となります。
* ばかりつくる: 「〜ばかり」は限定、「〜だけ」。「つくる」はここでは「(種を)蒔く」「(原因を)生み出す」という意味です。
→ この部分は、「口を自分のものだと思い込み、自分の欲望や怒り、愚痴、嘘、悪口、無駄話など(これらは仏教で「悪口(あっく)」「妄語(もうご)」「両舌(りょうぜつ)」「綺語(きご)」といった悪い言葉の業とされる)のために勝手に使うから、結果として地獄へ行く原因ばかりを作っているのだ」という意味になります。
全体の意味の解説
この言葉は、**「口という器官、すなわち言葉を発する能力は、本来あなた自身のものではない。それを自分のものだと思い込み、自己中心的な欲望や感情に任せて自由に使っていると、悪口や嘘、他人を傷つける言葉など、悪い業(カルマ)ばかりを積み重ねてしまい、それが原因で死後には地獄のような苦しい世界へ行くことになる。だから、その口を『自分のもの』という執着から解放し、阿弥陀仏に『寄附』する、つまり、ひたすら念仏を称えるために使いなさい。そうすれば、口から生まれる業は浄化され、救いの道が開かれるのだ」**という教えを説いています。
要点としては:
* 我執の否定: 「自分のもの」という考え(我執)が苦しみや悪業の根源であること。
* 口業(くごう)の重要性: 口から発する言葉が、良い結果も悪い結果も生み出す重要な行い(業)であること。
* 念仏への帰依: 自分の力や計らいを捨て、すべてを阿弥陀仏(念仏)に委ねることの勧め。口を念仏に捧げることは、その具体的な実践の一つ。
* 因果応報: 悪い言葉(地獄行の種)を蒔けば悪い結果(地獄)が、善い行い(念仏)をすれば善い結果(往生)が得られるという因果の道理。
厳しい言い方ですが、自己中心的な生き方を反省し、仏の教え(ここでは念仏)に生きるよう促す、深い慈悲に基づいた言葉と言えるでしょう。
こうしてみると奥深い言葉でした。
今日の一句
この口を仏にまかせ念仏す 我執をはなれこころ静けし