歌人・西行が詠んだ以下に記します三首の和歌には、彼の心の変化がよく表れています。初めは悩み苦しみながらも、やがて物事を静かに受け入れる境地へと至っていく――。そんな彼の心の旅を、3つの歌を通して見ていきましょう。
1. 心から心に物を思はせて 身を苦しむる我身なりけり
現代語訳:
あれこれと思い悩んで、自分で自分を苦しめている。ああ、私はそんな身の上なのだなあ。
この歌では、自分の内面に向き合い、悩みや煩悩にとらわれて苦しむ姿に気付いた時の様子が描かれています。心の中の葛藤が、自らの心身を追い込んでしまっているのに気づいています。仏教では、自らが煩悩の中に生きてることを知ることを重視しています。
2. 道の辺に清水流るる柳陰 しばしとてこそ立ちどまりつれ
現代語訳:
道ばたの柳の木陰に、清らかな水が流れているのを見つけて、ちょっとだけ休もうと思って立ち止まったのだ。
こちらの歌では、ふとした自然の風景に心を惹かれて、足を止める西行の様子が描かれています。迷いや苦しみを抱えながらも、どこかで心を休めたいという思いが感じられます。
3. にほてるやなぎたる朝に見わたせば こぎゆく跡の波だにもなし
現代語訳:
朝日を浴びて美しく輝く柳のそばで琵琶湖のあたりを見渡すと、舟が通ったあとすら、波の跡も何も残っていない。
この歌は、人生のはかなさ――無常を深く感じさせるものです。舟が通った痕跡すら残っていないという描写は、人の行いや生きた証も、いずれは消えてしまうということを暗示しています。この歌は亡くなる少し前に比叡山のお寺から琵琶湖を望んで歌ったものです。
西行の心と「煩悩即菩提」の思想
これらの三首には、西行の心の移ろいが見事に表れています。
最初の二首では、煩悩や迷いにとらわれた苦しみに気づいた様子が描かれていました。しかし、最後の歌では、「何も残らない」という無常の現実を、穏やかに受け入れているように感じられます。
そこには「諦観(たいかん)」――つまり、物事のありのままを見つめ、静かに受け入れる姿勢がにじみ出ています。この心のありようは、仏教の「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」の考えにも通じます。苦しみや迷いも、そのまま悟りへとつながるという考え方です。
西行の歌は、人生における苦しみと向き合いながら、やがてそれを受け入れていく心のあり方を私たちに教えてくれるのです。
今日の一句
鼻は縦 目は横にして 桜散る 悲しみのなか 微笑まれたり