親鸞聖人の教えの中心には、難解でありながらも非常に重要な『信心』と『他力』の考え方があります。なぜ私たちは、煩悩にまみれていても救われるのか?「信じる」とは、一体どういうことなのか?この記事では、こうした多くの人が抱く疑問に、Q&A形式で分かりやすくお答えしていきます。
Q: 煩悩にまなこさえられて摂取の光明観ざれども大悲物憂きことなくて常に我が身を照らすなり。について、阿弥陀仏の摂取の光明を見ることができないのに、大悲は常に我が身を照らすのはどういう意味か?
A:この一節は、親鸞の教えに基づくもので、阿弥陀仏の救済(摂取不捨)に関する考えを表しています。
「煩悩にまなこさえられて摂取の光明観ざれども」
私たちは煩悩(欲や迷い)によって心の目が曇り、阿弥陀仏の救いの光(摂取の光明)を見ることができない。
「大悲物憂きことなくて常に我が身を照らすなり」
しかし、阿弥陀仏の大悲(限りない慈悲)は、私たちが見えようが見えまいが関係なく、常に私たちを包み込んでいる。
Q:大悲は何の光を出して照らしているのか?
A:阿弥陀仏の「摂取の光明」は、衆生を救うための智慧と慈悲の光です。この光は本来、すべての者を照らしていますが、私たちは煩悩にとらわれているため、それに気づくことができません。
しかし、「大悲」は、私たちの煩悩によって影響されることなく、阿弥陀仏の救い(本願)として常に働き続けています。つまり、「光」とは単なる視覚的な光ではなく、阿弥陀仏の救済の力、すなわち「本願のはたらき」そのものを指しています。
まとめると、私たちがその光(阿弥陀仏の救い)を感じ取ることができなくても、阿弥陀仏の慈悲の働き(大悲)は変わらず私たちを包み込み、常に救おうとしている、という意味になります。
Q:本願の働きは感じることはできるのでわかるという意味か?
A:「本願の働きは感じることができるのでわかる」という解釈も可能ですが、この一節の文脈では、必ずしも自分で明確に「感じる」ことが前提とはなっていません。
むしろ、私たちは煩悩によって摂取の光明(阿弥陀仏の救済の光)を見ることができないが、それでもなお、阿弥陀仏の大悲は絶えず私たちを包み、救い続けている、という点が重要です。
Q:感じることはできるのか?
A:悟りを開いた者や信心を深く得た者は、本願の働きを「感じる」ことができるかもしれません。
これは、阿弥陀仏の救いを実感し、「ああ、私はすでに摂取されているのだ」と確信できる状態。
一方で、煩悩に覆われた私たちは、その働きを直接感じることが難しい。しかし、たとえ感じることができなくても、阿弥陀仏の本願は常に私たちを救い続けている。
親鸞の教えでは、私たちの主観的な感覚とは関係なく、本願の働きは決して止まることがないとされています。したがって、たとえ感じられなくても、阿弥陀仏の大悲の光は絶えず私たちを照らし続けている、ということになります。
つまり、「感じることができるかどうか」は問題ではなく、「たとえ感じられなくても本願は私たちを照らし、救いの働きをしている」というのがこの一節の核心です。
Q:それは、本願があるから、それを信じてるからでしょうか?
A:はい、その通りです。阿弥陀仏の「本願」が確かに存在し、私たちを救い続けているということを信じることが、この教えの中心にあります。
しかし、ここで重要なのは、「信じるから救われる」のではなく、「信じる・信じないに関係なく、すでに救われている」という親鸞の考え方です。
Q:本願と信心の関係は?
A:本願は、私たちが信じるかどうかに関係なく働いている。
たとえ煩悩によって摂取の光明(阿弥陀仏の救済の光)が見えなくても、阿弥陀仏の慈悲(大悲)は常に私たちを包んでいる。
「信じる」というのは、その本願の働きを受け入れること。
阿弥陀仏の救済を「自分が信じたから得られる」と考えるのではなく、「すでに救われていることに気づく(信心が開かれる)」という考え方。
信心を持つことで、阿弥陀仏の救いを実感しやすくなる。
煩悩にとらわれていると、その救いを感じにくいが、本願を信じることで「阿弥陀仏の光が常に私を包んでいる」と気づくことができる。
Q:阿弥陀仏を信じなくても救われるか?
A:親鸞の教えでは、阿弥陀仏の救済はすでに成就しており、私たちはすでに摂取されている(救われている)とされています。したがって、「信じるかどうか」によって救済が決まるのではなく、すでに救われていることに気づくかどうかが問題なのです。
つまり、
本願があるからこそ、すべての衆生は救われる。
信じることで、その救いの光を実感できるようになる。
たとえ信じられなくても、本願の光(大悲)は変わらず私たちを包み続けている。
という構造になっています。これは、阿弥陀仏への信心が、阿弥陀仏からの回向であるからです。これに関する本願寺熊本別院の法話のリンクを貼ります。
Q:「信心すなはち一心なり 一心すなはち金剛心 金剛心は菩提心 この心すなはち他力なり」と親鸞の和讃にある。常に我が身を照らすなりの和讃と合わせて考えると、阿弥陀仏のことを考えたり、念仏を唱えようと考えたりするのは、阿弥陀仏の他力の働きがある。つまり、それら信心に関することは、他力であるからと考えて良いか?
A:
はい、その解釈は親鸞の教えに沿っています。つまり、「阿弥陀仏のことを考えることや、念仏を唱えようとする心そのものが、阿弥陀仏の他力の働きである」と捉えて良いです。
「信心すなはち一心なり…」の和讃と「常に我が身を照らすなり」の関係
「信心すなはち一心なり」
信心とは一心(雑念のない心)であり、それは揺るぎない金剛心である。
「金剛心は菩提心」
金剛心(壊れない信心)は、悟りを求める菩提心と同じである。
「その心すなはち他力なり」
つまり、この信心は阿弥陀仏の他力によって与えられるものであり、自力の努力で生まれるものではない。
この考えを、「常に我が身を照らすなり」の和讃と結びつけると、阿弥陀仏の本願の働き(大悲)は、煩悩にとらわれた私たちの自覚に関係なく、常に私たちを包み、信心をもたらしていると理解できます。
Q:信心も念仏も他力の働きか?
A:親鸞の教えでは、信心(阿弥陀仏を信じる心)や念仏を唱える行為も、自力ではなく、阿弥陀仏の本願力によるもの(他力)と考えます。これは、上の法話でも説かれています。
「自分が念仏を唱えようと思った」
「阿弥陀仏のことを考えた」
これらの心の動きは、実は阿弥陀仏の本願の力が私たちに及んでいる証拠であり、他力の働きそのものだということです。
したがって、「信心に関することすべては、阿弥陀仏の他力の働きによる」と考えてよいという結論になります。
今日の一句
大雪が自然の無常見せつける 祈りの中に咲く梅の花