良寛和尚と貞心尼は、禅宗の「悟り」について、和歌を通して深遠な対話を交わしました。その記録は『蓮の露』などに相聞歌として残されており、月の光や春の訪れ、雪解けといった自然の現象を通して、仏の慈悲や悟りへの道、修行の意味を語り合っています。
彼らの歌には、悟りとは何か、迷いとは何か、そしてそれを超えるにはどうすればよいのかという、禅的な問いと答えが込められています。
自然の流れと悟りの境地
おのずから 冬の日数の 暮れゆけば 待つともなきに 春は来にけり (貞心尼) (自然と冬の日々が過ぎていくうちに、ことさら待ち焦がれるわけでもないのに、春はやって来ました。)
この歌は、執着や期待を手放し、時の流れに身を任せれば、冬が終わり春が訪れるという自然の営みそのものに、仏の教えを見出した一首です。貞心尼が、心を静めて待つことで悟りが自然と開かれる、という気づきを得た歌とも言われます。続く二首では、その悟りの境地がより具体的に詠まれていきます。
二元論を超える境地
我も人も うそも誠も 隔てなく 照らし抜きける 月のさやけさ (貞心尼) (自分も他人も、偽りも真実も、すべてを分け隔てることなく照らし出す、この月の光の清らかなことよ。)
ここでは、善悪や真偽といった二元的な価値観を超越し、あらゆる分別から離れた仏の智慧が、清らかな「月」の光に象徴されています。悟りの境地とは、すべてを平等に受け入れ、ありのままを観ることが大切であると示唆しています。
夢と現実、迷いと悟り
覚めぬれば 闇も光も なかりけり 夢路を照らす 有り明けの月 (貞心尼) (目が覚めてみれば、夢の中で見ていた闇も光も、もはやどこにも存在しなかった。ただ、明け方の月が夢の道を照らしていただけだったのだ。)
夢の中では光と闇をはっきりと意識していても、目覚めればそれらは共に消え去ります。この歌は、「迷い」と「悟り」という二元的な考え方すら、最終的には超えていくべきものであることを示しています。真理の世界とは、あらゆる分別を離れた静寂な境地であり、それこそが本来の姿なのです。
悟りの縁(えにし)を喜ぶ
天が下に 満つる玉より 黄金より 春の初めの 君が訪れ (良寛) (この世にあふれるどんな宝石や黄金よりも、春の初めにあなたが訪ねてきてくれたこと、それが何より嬉しい。)
良寛は、物質的な価値よりも、精神的な交流や悟りの縁こそが尊いと詠みます。さらに、貞心尼が悟りへと向かっていることを「春の初め」になぞらえ、そのことを心から喜ばしく思う気持ちが込められています。
手にさわる ものことなけれ 法(のり)の道 それがさながら それにありせば (良寛) (仏の教えとは、手で触れることができるような形のあるものではない。それ(形のないもの)がそのまま真理であるならば…。)
貞心尼の悟りの歌に対し、良寛はさらに奥深い道へと諭します。悟りとは目に見えたり手で触れたりできるものではなく、言葉や形を超えたものこそが仏法の本質である、と。
修行の道と悟りの深まり
春風に 深山の雪は 解けぬれど 岩間によどむ 谷川の水 (貞心尼) (春風によって山全体の雪はすっかり解けたけれど、岩の間にはまだよどんだ雪解け水が残っています。)
良寛に諭され、貞心尼は自らを省みます。仏法の教えを頭で理解し、悟りの境地が見えた(雪は解けた)としても、心の奥底にはまだ迷いの名残(谷川のよどんだ水)が残っている、と正直に詠んでいます。
深山辺の み雪解けなば 谷川に よどめる水は あらじとぞ思う (良寛) (山全体の雪がすべて解けてしまえば、谷川によどんでいる水も、もはや存在しないことでしょう。)
良寛は、迷いの根源(山全体の雪)がすべて消え去れば、枝葉の迷い(谷川の水)も自然になくなると応えます。深い修行を重ねることで、心の奥底に残る迷いもやがて消えていくことを優しく示しています。
言葉ではなく体験で悟る
いずこより 春は来しぞと 尋ぬれど 答えぬ花に うぐいすの鳴く (貞心尼) (「春はどこから来たのですか」と尋ねてみても、花は何も答えない。ただ、うぐいすが美しく鳴いているだけ。)
この歌は、悟りの本質を直観的に捉えています。春の訪れは、理屈で説明されるものではなく、花が咲き、鳥が鳴く姿そのものから感じ取るもの。同様に、仏法の真理も言葉による理解ではなく、日々の暮らしの中での体験を通してこそ悟るべきものであることを示しています。
師との対話と悟りの道
君なくば 千度百度 数うとも 十ずつ十を 百と知らじを (貞心尼) (あなた様がいなければ、たとえ千回万回数えたとしても、「十が十で百になる」という自明の理さえも、私は知ることができなかったでしょう。)
悟りの道には、良き師(善知識)との出会いが不可欠です。良寛という導き手があったからこそ、真の悟りへの道を見出すことができた、という深い感謝が込められています。
いざさらば 我もやみなむ 九の余り 十ずつ十を 百と知りなば (良寛) (さあ、それでは私も終わりにしよう。この「九の余り(迷い)」も、「十が十で百になる」と真に知れば(悟りを得れば)、消え去るだろうから。)
良寛は、真理を本当に体得することで、最後の迷いも消え去ると述べます。「九の余り」とは百に一つ足りない不完全な状態、すなわち迷いのことです。悟りとは理論ではなく、深く腑に落ちる体験の中で完成するものなのです。
仏道への誓い
霊山(りょうぜん)の 釈迦の御前に 契りてし 事な忘れそ 世はへだつとも (良寛) (霊鷲山でお釈迦様の前にて誓った約束を、決して忘れないでおくれ。たとえこの世で離れ離れになっても。)
霊山の 釈迦の御前に 契りてし 事な忘れじ 世はへだつとも (貞心尼) (霊鷲山でお釈迦様の前にて誓った約束を、私は決して忘れません。たとえこの世で離れ離れになっても。)
二人は、たとえ死が二人を分かとうとも、共に歩んだ仏道への誓いを決して忘れないと、固く誓い合います。ここには、修行者としての強い信念と、時空を超えて共にあるという魂の深い結びつきが表れています。
参考文献
『蓮の露 良寛の生涯と芸術 復刻版』 ヤコブ・フィッシャー (著)、近藤敬四郎 (翻訳)、若林節子 (翻訳)
今日の一句
月影の 見えぬ空には 雲かかり 仏の慈悲は それでも届く