月影

日々の雑感

良寛と貞心尼の交流:心の迷いを照らす励ましの歌(その2)

良寛と貞心尼が交わした相聞歌の中には、仏道の教えについての深いやりとりが見られます。今回は、貞心尼からの音沙汰が途絶えたことを心配した良寛が、歌で問いかけるところから物語が始まります。

君は忘る 道や隠るる この頃は 待てど暮らせど おとづれのなき良寛) (私を忘れてしまったのですか。それとも、庵への道が分からなくなってしまったのでしょうか。この頃は、いくら待ってもあなたからの便りがありません)

この心遣いにあふれた歌に対し、貞心尼は次の二首を返しました。

ことしげき 葎(むぐら)の庵に 閉ぢられて 身をば心に まかせざりけり (貞心尼) (雑事に追われ、まるで雑草の生い茂る庵に閉じ込められているかのようで、自分の身を心のままにすることができませんでした)

「身をば心にまかせざりけり」という言葉から、良寛に会いに行きたいと願いながらも、修行や寺務に追われて叶わない、もどかしい気持ちが伝わってきます。

山の端(は)の 月はさやかに 照らせども まだ晴れやらぬ 峰のうす雲 (貞心尼) (山の稜線から昇った月は明るくあたりを照らしていますが、山の峰にかかった薄雲は、まだ晴れずに残っています)

この歌は、貞心尼の心情を巧みに自然の情景に重ねています。仏教で悟りや仏の智慧の象徴として用いられる「月」。ここでは、「山の端の月」が悟りの境地にいる良寛を、「まだ晴れやらぬ峰のうす雲」が、仏道を学びながらも悟りには至らない、自身の心に立ち込める迷いを表していると考えられます。


貞心尼の歌に対し、良寛は師として、温かくも厳しい三首の歌を返します。

身を捨てて 世を救う人も 在(ま)すものを 草の庵(いおり)に 暇求むとは良寛) (世の中には、自分を犠牲にしてまで人々を救おうとする人もいるというのに、あなたはどうして草庵に籠って自分のことばかりを考えているのですか)

これは、貞心尼が「庵に閉じこもっている」と詠んだことに対し、より広い視野で慈悲の実践を促す歌です。「自分の悩みにとらわれず、世の中に目を向けなさい」という、師としての導きが感じられます。

久方の 月の光の 清ければ 照らしぬきけり 唐(もろこし)も大和も 昔も今も 嘘も誠も良寛) (月の光はあまりに清らかであるから、中国も日本も、昔も今も、嘘も真実も、すべてを分け隔てなく照らし尽くしているのです)

この壮大な歌は、良寛の悟りの境地そのものです。「月の光」とは、仏の慈悲の光の象徴。その光は、国や時代、善悪といったあらゆる二元論を超え、すべてを平等に照らし救済するのだと説きます。

晴れやらぬ 峰のうす雲 立ち去りて のちの光と 思はずや君良寛) (晴れることのない峰の薄雲も、いつかは必ず立ち去る。その後にこそ真の光が見えるのだと、あなたはどうして思わないのですか)

貞心尼の「まだ晴れやらぬ峰のうす雲」という歌に、真正面から応える一首です。良寛は、今は悩みや迷いの中にあっても、それを乗り越えた先にこそ真の悟りの境地が開けるのだから、希望を失わずに歩みなさいと、貞心尼を力強く励ましています。

これらの歌のやりとりからは、二人の間にあった、互いを思いやる温かい心情と、仏道における師弟としての真摯な導きの関係がうかがえます。

 

参考文献

『蓮の露 良寛の生涯と芸術 復刻版』 ヤコブ・フィッシャー (著)、近藤敬四郎 (翻訳)、若林節子 (翻訳)

今日の一句

浄土にて争うこともなかりけり 父母寄り添いて花の中行く