江戸時代後期の禅僧であり、歌人、書家としても名高い良寛。そして、良寛を心から慕い続けた歌人、貞心尼(ていしんに)。一休さんと森女との関係にも似ています。
年の差40歳、生きる時代も異なる二人の深い精神的な繋がりは、交わされた数多くの相聞歌(そうもんか)を通して、現代に生きる私たちの心をも揺さぶります。今回から4回にわたり、二人の魂の交流を和歌と共にたどります。
貞心尼、良寛の庵を訪ねる
貞心尼(1798年〜1872年)は、江戸時代後期から明治時代にかけて活躍した越後の女流歌人です。幼い頃から和歌に親しみ、結婚と破局を経て25歳で出家しました。その後、当時すでに高名であった僧侶・良寛を深く敬愛し、その人柄と歌に惹かれて手紙を送ったことをきっかけに、二人の交流が始まりました。
貞心尼は良寛を師と仰ぎ、和歌のやり取りや対話を通して仏の教えを学びました。二人の関係は、単なる歌の仲間というだけでなく、深い精神的な結びつきで結ばれた師弟関係であったと言えます。
1827年、29歳の貞心尼は、69歳の良寛に直接教えを請うことを決意し、その庵を訪ねます。
しかし、初めて訪れた際、良寛はあいにく不在で、会うことは叶いませんでした。その時の失望と、それでもなお募る想い。貞心尼は、良寛が子どもたちと手まりをつくのを好んだという逸話をもとに、次のような歌を詠みました。(参考文献1、2)
これぞこの 仏の道に 遊びつつ つくや尽きせぬ 御法(みのり)なるらむ (貞心尼) (これこそが、仏の道で自由に遊びながら、手まりのようについて(学んで)も尽きることのない、尊い仏の教えなのでしょう)
良寛からの返歌、そして待ち望んだ対面
貞心尼の歌に対し、良寛は機知に富んだ返歌を詠みました。
つきてみよ 一二三四五六七八(ひふみよいむなや) 九(ここの)の十(とを) 十とおさめて またはじまるを (良寛) (さあ、ついてごらんなさい。一から十まで数えたら、また一から始まるのですから)
これは単なる数え歌ではありません。「何度でも訪ねて来なさい。そのたびに、また新しい関係が始まるのです」という、温かいメッセージが込められているようです。また、老境の良寛が若い貞心尼を、無心に数を数える子どものように愛おしく感じた、と解釈することもできます。
その後、ついに貞心尼は良寛との対面を果たします。その喜びと感動を詠んだ歌には、二人の魂が初めて触れ合った瞬間の輝きが表れています。
君にかく あい見ることの 嬉しさも まだ覚めやらぬ 夢かとぞ思ふ (貞心尼) (こうしてあなた様にお会いできた嬉しさは、まるでまだ覚めることのない夢の中にいるようです)
夢の世に かつまどろみて 夢をまた 語るも夢も それがまにまに (良寛) (この夢のように儚い世の中で、うたた寝をしながら夢について語り合う。それもまた夢のようなもの。すべてをあるがままに、成り行きに任せましょう)
良寛らしい、すべてを自然のままに受け入れる無為自然の思想が、貞心尼の感動を優しく包み込みます。
静寂に包まれた秋の夜、冴えわたる月を眺めながら、良寛は何を思っていたのでしょうか。貞心尼は、その心に応えるように歌を返しました。
向かひゐて 千代も八千代も 見てしがな 空ゆく月の こと問はずとも (貞心尼) (あなた様とこうして向かい合って、いついつまでもこの景色を眺めていたいものです。空を行く月のことなど、言葉にして尋ねなくても)
ただ共にいたいという、貞心尼の切なる願い。その想いを、良寛は静かに受け止めます。
心さへ 変はらざりせば 這(は)ふ蔦(つた)の 絶えず向かはむ 千代も八千代も (良寛) (あなたのその心が変わらないのであれば、絶えることなく伸びていく蔦のように、私もあなたといつまでも向き合っていましょう)
再会を約束する歌
貞心尼が帰路につく際、二人は再会を願う歌を交わします。
立ち帰り またも訪ひ来む たまぼこの 道の芝草 たどりたどりに (貞心尼) (また必ずお訪ねいたします。この来た道を、芝草をたどるようにして、あなた様の元へ)
またも来よ 柴の庵(いおり)を 嫌(いと)はずば すすき尾花(おばな)の 露を分けわけ (良寛) (この粗末な庵でよければ、またいつでもおいでなさい。ススキの穂についた露をかき分けながら)
こうして、二人の魂の交流は、確かな絆となって結ばれたのです。
参考文献
1.『蓮の露 良寛の生涯と芸術 復刻版』 ヤコブ・フィッシャー (著)、近藤敬四郎 (翻訳)、若林節子 (翻訳)
今日の一句
わからぬに心手放し降る雪にそのままで良い春を待つ君