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日々の雑感

極楽浄土はどこにある?一休と蓮如の短歌に学ぶ仏教の本質

一休宗純が詠んだ短歌や言葉には、仏教の教義や僧侶たちのあり方に対する鋭いユーモアと批判精神が込められています。一休は、形式的な信仰や表面的な修行にとらわれず、仏教の本質を問い直すことで、その真髄を探求しようとしました。阿弥陀経に関する一休と蓮如は問答を短歌で行っています。

まずは、つぎの一休の短歌

 極楽は十万億土と説くなれば 足腰立たぬ婆は行けまじ

極楽は十万億土も離れたところにあると言うが、足腰が不自由な年老いた女性(婆、ばば)はそこまで行くことができないだろう。

解説

この短歌は、浄土教の中心的な教典である『阿弥陀経』を風刺しています。この経典では、極楽浄土が十万億土という遥か彼方に存在すると説かれていますが、一休はそれを字義通りに受け止めたうえで、「足腰が弱くなって立ち上がることさえできない老人には到底行けない」と皮肉を込めています。

1. 仏教教義への疑問

• 一休は「極楽がそんな遠くにあるなら、誰もそこに行けない」と指摘し、教義の現実離れに疑問を投げかけています。特に、弱者や高齢者といった、現実的に力の及ばない人々を引き合いに出すことで、教えの普遍性や平等性を問い直しています。

2. 比喩としての「足腰立たぬ婆」

• 老人は単なる肉体的な弱さの象徴ではなく、人間が抱える煩悩や無力さをも表しています。一休は「煩悩にとらわれた凡人が果たして救われるのか」という根本的な疑問を込めています。

3. 浄土教の非現実性への皮肉

浄土教では、念仏を唱えれば救われると説きますが、一休はその簡易さや距離感に疑問を呈し、「本当にそれで救いが得られるのか?」と批判しています。

4. 心中の極楽

• 一休はしばしば「悟り」や「真理」は遠くに求めるものではなく、自分の内面に見出すべきだと説きました。この短歌も、「極楽とは彼方にあるものではなく、自分自身の心の中にこそある」というメッセージを含んでいる可能性があります。阿弥陀仏の極楽浄土があるのかという疑問を提示しています。

 

一方、蓮如は一休の批判に応えるように、この短歌を詠みました。

 極楽は 十万億土と説くなれど 近道すれば南無のひと声

極楽浄土は十万億土(じゅうまんおくど)も離れた場所だと説かれているが、阿弥陀仏の名を唱える(南無阿弥陀仏と念仏する)だけで、そこに至る近道がある。

解説

1. 念仏による救い

蓮如は「極楽が十万億土の彼方にあろうとも、南無阿弥陀仏と唱えるだけで近道が開ける」と説き、浄土教の核心である阿弥陀仏への信仰を強調しています。ここには、信仰次第で距離を超える救いが得られるという希望があります。自分では行けないので阿弥陀仏の力(弥陀弘誓の船、願船)により運ばれる他力の救済です。さらに、念仏すると悟りも開けます。

2. 誰でも救われる普遍性

• 念仏は年齢や能力、肉体的な制約に関係なく、誰もが行える行為です。蓮如は「南無阿弥陀仏」という簡単な行(ぎょう)を通じて、老人も含めたすべての人に平等な救いが開かれていることを強調しました。

3. 一休への応答

• 一休が現実的な視点から浄土教の教えを批判したのに対し、蓮如はその信仰の力で「距離」を克服できると応じています。さらに、阿弥陀仏の極楽浄土はあるのだという立場を示しています。

まとめ

一休と蓮如の短歌は、それぞれ異なる角度(他力と自力)から仏教や浄土教の教義に光を当てています。一休は仏教の形式化や非現実性を批判し、悟りや極楽を心の中に見出すべきだと説きました。一方、蓮如阿弥陀仏への信仰と念仏による救済を強調し、すべての人に開かれた平等な救いを説きました。この二つの視点は、仏教の多様性や深みを示しつつ、現代の私たちにも信仰や悟りについて再考を促しています。どちらも魅力的な考え方ですし、どの道を進むかは個人の好みによるでしょう。

 

今日の一句

冬路に車走らせ風光を探すたびごと心満たされ