月影

日々の雑感

老木の花、春の夕暮れ… 西行が詠んだ「あはれ」の真髄

西行山家集を見て、好きになった和歌を紹介します。

わきてみんおい木は花もあはれなりいまいくたひか春にあふへき

(ふる木のさくらの、ところさきたるをみて、山家集 94)

 

 

ふる木のさくらの、ところさきたる




この歌を見て、老木が花を咲かせる姿に生命の力強さを感じ、同時に自分が老年に入った中で、これからも花を咲かせるとはどういう意味かと考えさせられました。さらに、あと何回花見ができるかなとしみじみとした感慨に浸っています。

 

現代語訳
特に心に留めて見てみると、老いて見える老木でさえ、花を咲かせているのは、なんともしみじみと感動的だ。今後自分は(この老木のように)何度、春を迎えることができるのだろうか。


解釈
この歌は、老木が花を咲かせているのを見て、西行が生命の力強さ、そして自身の老い、そして命のはかなさを感じている歌です。

「わきてみん」: 特に心に留めて見ると。
「おい木は花も」: 老木であっても花を咲かせている。
「あはれなり」: しみじみと感動的だ、味わい深い。
「いまいくたひか」: あと何回。
「春にあふへき」: 春を迎えることができるだろうか。


また、

ゆく春をととめかねぬるゆふくれはあけほのよりもあはれなりけり

(三月一日たらてくれにけるによみける、山家集173)

 

三月一日たらてくれにける



という歌では、過ぎゆく春を惜しむ気持ちが、夕暮れ時の景色と相まって、より一層強く表現されています。この歌の背景には、清少納言枕草子の冒頭の、「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。」との、春は朝日が昇る頃がいいというのがあります。それに対して、夕暮れ時もいいよという感じでしょうか。

 

現代語訳
過ぎてゆく春を、引き止めることができない夕暮れ時は、夜明けよりも、しみじみと感慨深いものです。
解釈
この歌は、春の終わり(旧暦の三月一日ですから、今だと三月下旬から四月上旬の桜の咲く時期です)、夕暮れ時に、西行が桜が散っていくのを見て過ぎゆく春を惜しみ、無常を感じている歌です。
「ゆく春を」: 過ぎ去ろうとしている春。
「ととめかねぬる」: 引き止めることができない。
「ゆふくれは」: 夕暮れ時は。
「あけほのよりも」: 夜明けよりも。
「あはれなりけり」: しみじみと感慨深い。
西行は、春の終わりである夕暮れ時を、夜明けよりも「あはれ」と感じています。
「あはれ」には、
春の終わりに対する 惜別の情
移り変わる季節の 無常感
夕暮れ時の 美しさ、儚さ
など、様々な感情が込められています。

 

上記の和歌を含めて西行山家集には、約1500首の和歌が収められており、そのうち約100首に「あはれ」という言葉が使われています。このことから、「あはれ」は西行の和歌において重要なキーワードであったと考えられます。彼は遊行しながら、様々な場面で「あはれ」を感じ、それを和歌に詠み込んでいました。


山家集の中で前回紹介しました、


こころなき身にもあはれは知られけりしきたつさはの秋の夕暮れ

(あき、ものへまかりけるみちにて、山家集 470)

 

この歌に登場する「心、こころ」「身」「あはれ」といった言葉が、山家集全体でどの程度使われているのかを調べてみると、以下のようになりました。私は理系の人間ですので、分析するのがくせになっています。
| 言葉    | 和歌の数 |

|  心       |        283 |
| こころ |          31 |
| 身        |        106 |
| あはれ |        100 |


この表から、「心、こころ」という言葉が最も多く出現していることが分かります。西行は、自然や人生における様々な出来事と向き合い、自身の心の動きを繊細に捉え、それを和歌に表現していたのでしょう。また、「はる」や「あき」の言葉を使ったものも多かったので、その時期に歌をたくさん詠んだようです。「ふゆ」や「なつ」は少なかったです。

 

西行は、自然の美しさや儚さ、そして人間の心の奥底にある感情を、「あはれ」という言葉を通して見事に表現しました。彼の和歌は、現代においても多くの読者に感動を与え続けています。

 

歌の番号や分析に使いました山家集のデータは以下のホームページです。

lapis.nichibun.ac.jp

によりました。