罪障功徳(ざいしょうくどく)の体(たい)となる こおりとみずの ごとくにて こおりおおきに みずおおし さわりおおきに 徳おおし
「罪や障(さわ)りが多いほど、仏の徳もまた大きい」
初めてこの和讃(仏教讃歌)に触れた時、言葉は平易なのに、その意味を理解するのは非常に難しいと感じました。「罪を犯せば功徳が増える」とでも言うのでしょうか?そんな都合のいい話があるはずがない…。
しかし、この一見矛盾した言葉にこそ、親鸞聖人の教えの核心と、私たち凡夫への限りない慈愛が込められていました。 今回は、この難解で深遠な和讃の意味を、一緒に読み解いていきたいと思います。
核心の比喩:「氷と水」の関係
親鸞は、私たちを縛る「罪障(罪や煩悩)」と、仏の「功徳(善の働き)」の関係を、**「氷と水」**に例えました。
氷と水は、見た目も性質も全く異なりますが、その本質は同じ「H₂O」です。そして、人間の力ではなく、温度という自然の働き(縁)によって、硬い氷は豊かな水へと姿を変えます。
この和讃のポイントは、「罪障が功徳に変わる」のではなく、「罪障という氷が、仏の慈悲という熱によって溶かされ、功徳という水になる」と捉える点です。そして、その働きは、すべて阿弥陀仏の力(他力)によるものだと説きます。
なぜ「さわりおおきに徳おおし」なのか?
では、なぜ「罪障(さわり)が多いほど、功徳(徳)も大きい」のでしょうか。 これは、親鸞の教えの根幹である**「悪人正機(あくにんしょうき)」**の思想に繋がります。
「悪人正機」とは、**「自分自身の力では到底救われることのない、罪深く愚かな人間(悪人)こそ、阿弥陀仏の救いの本当の目当てである」**という教えです。
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罪が浅い(氷が小さい)人は、自分の力で善い行いをしようとします(自力)。そのため、仏の大きな慈悲に気づきにくい。
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罪が深い(氷が大きい)人は、「自分の力ではどうにもならない」と絶望し、心の底から仏の救いを求めます。その時初めて、自分に向けられた、とてつもなく大きく温かい慈悲の光に気づくのです。
つまり、罪障という「氷」が大きければ大きいほど、それが溶けた時に得られる「功徳の水」の量もまた、膨大になる。自分がいかに罪深い存在であるかを痛感する人ほど、阿弥陀仏の慈悲の有り難さを、より深く、より大きく感じることができる。これが、「さわりおおきに徳おおし」の真意なのです。
この教えを、どう現代に活かすか
この和讃は、失敗や過ちを犯し、自己否定に陥りがちな現代の私たちに、重要な視点を与えてくれます。
失敗や欠点も「仏種」となる
仕事で失敗した時、人間関係で過ちを犯した時、私たちは「自分はなんてダメなんだ」と自分を責めてしまいがちです。 しかし、親鸞の教えによれば、その**「ダメだ」と感じる心、罪の重さに気づく心こそが、仏の慈悲に触れる第一歩(仏種)**なのです。
自分の弱さや醜さから目を背けるのではなく、それを抱えたまま、「こんな私ですが、おまかせします」と阿弥陀仏の力(他力)に委ねることで、私たちは心の安らぎを得ることができます。
他者への寛容さが生まれる
この教えは、他者への見方も変えてくれます。私たちはつい、人の過ちや欠点を厳しく裁いてしまいがちです。しかし、「どんな罪深い人間も、仏の救いの対象である」という視点に立てば、他者の弱さや過ちを、より寛容な心で受け止められるようになるかもしれません。
【補足】関連する和讃と、言葉の解釈
この「氷と水」の教えは、同じく曇鸞讃の中にある、次の和讃でさらに深められています。
無碍光(むげこう)の利益(りやく)より 威徳広大(いとくこうだい)の信を得て かならず煩悩(ぼんのう)のこおりとけ すなわち菩提(ぼだい)の水となる
(訳:阿弥陀仏の限りない光の力によって、広大な慈悲の信心をいただき、私たちの煩悩の氷は必ず溶けて、そのまま悟りの水となるのです。)
ここでは、私たちの煩悩が、仏の光(慈悲の熱)によって、悟りの智慧の水へと転換される様子が、よりダイレクトに描かれています。
(専門的な話:威徳と恩徳) この「威徳広大」の部分は、別の写本では「恩徳広大」となっています。親鸞の真筆が残っていないため断定はできませんが、「威徳」は仏の絶大な力への畏敬、「恩徳」は仏の慈悲への感謝の念と、少しニュアンスが異なります。どちらも、他力によって生じる信心の尊さを表しています。
結び:弱さを肯定する、絶対的な慈悲
「罪障功徳の体となる」という和讃は、一見すると危険な思想にさえ聞こえます。 しかし、その本質は、私たちの弱さ、愚かさ、罪深さを、一切否定することなく、そのすべてを丸ごと抱きしめ、救いへと転じてくださるという、阿弥陀L仏の絶対的な慈悲を説いたものでした。
完璧ではない自分を責めるのではなく、そんな自分だからこそ向けられている、大きな光がある。 この教えは、悩み多き現代を生きる私たちを、足元から温かく照らしてくれる、大きな希望の光となるのではないでしょうか。