月影

日々の雑感

ただ頼め よろずの罪は 深くとも わが本願の あらん限りは

先日紹介した、月影を読んだ法然上人に関するブログ(月影という言葉について)に続いて、法然上人の和歌で大事なものを紹介します。

ただ頼め よろずの罪は 深くとも わが本願の あらん限りは

 

現代語訳

ただ(阿弥陀仏を)頼りにしなさい。様々な罪(煩悩)がどんなに深く重くても、阿弥陀仏の「本願(すべての人を救うという誓い)」がある限りは、(必ず救われるのだから)。


解釈

この歌は、阿弥陀仏の絶対的な他力本願の教えを端的に表しています。

  1. 「ただ頼め」 このフレーズが歌の冒頭に置かれていることが極めて重要です。それは、私たちが救われるために、特別な修行や善行を積む必要はなく、ひたすら阿弥陀仏に身を委ね、信じ頼ることこそが肝要であると説いています。これは、自力(自分の力で悟りを開こうとする努力)を否定し、他力(阿弥陀仏の力に任せること)を強調する浄土真宗の教えの根幹です。

  2. 「よろずの罪は 深くとも」 「よろずの罪」とは、私たち人間が生まれながらにして持つ煩悩や、生きる上で犯してしまう様々な過ち、深い業(カルマ)を指します。親鸞聖人は、どれほど多くの罪を犯し、深く煩悩に囚われている人間であっても、阿弥陀仏の救いの対象外になる者はいないと説いています。むしろ、自らの罪深さを自覚する者ほど、阿弥陀仏の本願の偉大さをより深く感じ取れるという考え方です。

  3. 「わが本願の あらん限りは」 「わが本願」とは、阿弥陀仏法蔵菩薩であった時に立てた「四十八願(しじゅうはちがん)」と呼ばれる壮大な誓いのことです。特に有名なのが「第十八願(念仏往生の願)」であり、「たとえどれほど罪深い者であっても、私の名を心から信じて念仏(南無阿弥陀仏)を唱える者は、必ず極楽浄土に迎え入れよう」という誓いです。 このフレーズは、阿弥陀仏の誓いは決して破られることがなく、私たちを必ず救い取ってくださるという、その絶対的な力と普遍性を表しています。私たちがどんな状態であっても、阿弥陀仏の救いの手は常に差し伸べられている、という揺るぎない安心感を与える言葉です。


まとめ

この歌は、「どんなに罪深い人間であっても、自分の力でどうにかしようとするのではなく、ただひたすら阿弥陀仏の本願(救いの誓い)に身を任せなさい。そうすれば、阿弥陀仏が必ずあなたを救い取ってくださるから心配いりません」という、阿弥陀仏の無条件の慈悲と、それを受け入れる「信」の重要性を力強く説いています。

自らの罪深さや無力さを認め、ただ阿弥陀仏に帰依することで救われるという、他力本願の教えの核心が込められた一首です。

 

この和歌には、法然の深い信仰と阿弥陀仏への絶対的な信頼が込められています。また、阿弥陀仏衆生(全ての人)を救うぞという魂の叫びを代弁してる印象を受けます。この教えは法然上人が、京都の真如堂(真正極楽寺)にある阿弥陀仏から直接授けられたそうです。ある日、法然真如堂阿弥陀仏の前で祈っていると、阿弥陀仏が彼に「すべての人がたとえどれほどの罪を抱えていても、私の本願の力によって必ず救われる」という啓示を与えたとされています。その時の気持ちを歌ったものです。こらは、熊谷次郎直実に書状で伝えたと記録されてます。

 

この真正極楽寺阿弥陀如来は頷きの如来と呼ばれており平安時代に作られた立像としては日本最古の仏像です。親鸞上人も信仰していたそうです。法然院平安神宮の近くにあるようで、京都に行く機会があればぜひ訪れたいものです。毎年11月15日には、お寺で仏像を見ることができるようですが。

 

この歌の心は、現代の私たちが神社でお祈りをして、願いを神に託す姿勢にも通じるものがあります。神社で祈るように、法然阿弥陀仏に「ただ頼め」と呼びかけ、阿弥陀仏の力にすべてを委ねる他力の信仰を重視しました。こうして法然は、自己の力だけではどうにもならない罪や煩悩を抱える人々に、阿弥陀仏誓願による救済の道を説いたのです。

 

以前、福岡市の萬行寺を訪れた時、浄土真宗のお寺なのにお賽銭箱があるのをみて驚きました。萬行寺は、明治期に七里恒順という高僧がいたことで有名です。賽銭箱が置いてあるのも法然上人このような思想が関係あるのかもしれません。